メアリー・オブ・ギーズ(4)
文字数 1,092文字
1547年の1月28日にヘンリー8世が死去すると、若年のエドワード6世の摂政としてサマセット伯エドワード・シーモアらが実権を握った。この年、それまで親英派であったアラン伯が親仏派であったビートン大司教の説得を受けてカトリックに改宗した。アラン伯の寝返りにイングランド宮廷は激怒し、スコットランドに侵攻した。1547年9月10日、ピンキ・クローの戦いが起きた。イングランド軍の大虐殺によりスコットランドでは1万人以上の死者を出し、なおもイングランド軍による各地での略奪が行われた。危険を感じたマリーは娘のメアリーを連れて9月11日から18日までインチマホームにある修道院に避難した。
マリーは1548年7月、フランスとの間で王太子フランソワ(後のフランソワ2世)とメアリーとの婚約を決め、エドワード6世との婚約を破棄した。7月29日、メアリーは迎えに来たガレー船に乗船し、メアリー・フレミング、メアリー・シートン、メアリー・ビートン、メアリー・リヴィングストンという4人の同名の侍女達と共にフランスに向けて旅立った。
1557年にマリーはボスウェル伯をスコットランド国境のハーミテージの指揮官に任命した。ボスウェル伯は、当時スコットランド国境から絶えず侵入を繰り返し、人々を恐れさせていたイングランドの軍隊や盗賊団の掃討に、目ざましい働きを見せていた。マリーはボスウェルを高く評価しており、さらに地域一帯の指揮権も与えている。
1557年12月3日、アースキン、アーガイル、モートン、グレンケアンらのプロテスタント貴族は、プロテスタントの布教に努めるというもっともらしい口実で「組合貴族」を結集し、エディンバラに集結した。彼らは自分達を「イエス・キリストの会衆」と自称すると、スコットランドの政治・宗教上の改革と、スコットランド全土におけるプロテスタント教会の設立を要求した。彼らの真の目的は、国内のカトリック勢力を打倒し、カトリック教会の財産を手中にし、マリーに入れ知恵する邪魔なフランス人を駆逐する事であった。