カスペの妥協(6)
文字数 1,662文字
代表者は次の9名である。ウエスカ司教ドメニク・ラム、ベネディクトゥス13世の全権大使フランセスク・デ・アランダ、アラゴン王国のコルテス代表ベレンゲル・デ・バルダイシー、タラゴナ大司教ペレ・デ・サガ^リガ、バルセロナ評議員ベルナト・デ・グアルベス、カタルーニャのコルテス代表ギリェン・デ・バセイカ、ポルタセリ修道院長ボニファシ・フェレール、ドミニコ会派聖職者ビセンテ・フェレール(説教師、ボニファシの兄)、ペレ・ベルトラン(法に精通していることでバレンシア代表になった)
バレンシア代表でボニファシ・フェレールとビセンテ・フェレールが兄弟で出ているのがちょっとずるいと思いました。そのほかにベネディクトゥス13世の全権大使が加わって3人がフェルナンド1世に投票すればそれだけで3票集まってしまいます。
余がアラゴン王になった時、修道院育ちで政治に疎く戦いに出ることもできない余を貴族達は馬鹿にして各地で反乱が起きた。余はウエスカに大きな鐘を作るという名目で貴族達を呼び集め、1人ずつ部屋に入れて反乱に加わっていた者はその場で斬首し、その首を鐘のように高く積み上げた。貴族達は余を怖れ、反乱はピタリと止まった。
余の父上、サンチョ・ラミレス王は理想の国を作ろうとした。ローマに巡礼に行って、ローマ風の教会儀式をアラゴンに取り入れた。ペドロ兄上が王となり、アルフォンソ兄上が軍隊の最高指揮官、そして余が修道院長となって国を支え、アラゴンの発展を夢見ていた。だが皮肉にも兄上たちは後継者を残さずに亡くなり、余が王位を継ぐことになった。
余の娘ペトロニーラと結婚したバルセロナ伯ラモン・バランゲーはよくできた男であった。そしてアラゴン連合王国が成立した。アラゴンとカタルーニャ、どちらが上というわけではなく独立国としてそれぞれ議会を持ち、対等であった。
バルセロナ朝アラゴンは様々な危機がありながらも、アラゴンとカタルーニャ、そしてバレンシアも加わった連合王国として発展してきました。でもカスペの妥協で、カスティーリャ王子、トラスタマラ家のフェルナンド1世が選ばれたことで、いままでのバランスは崩れ、アラゴンはもうアラゴンではなくなってしまいます。
カスペの妥協の頃は政治も宗教も乱れていました。ラミロ2世の父サンチョ・ラミレス王の時代のように教皇が絶対的な権威を持っていた時代と異なり、対立教皇が出て、支持者集めに奔走するようになりました。聖職者、王侯貴族、誰もが利益を求めて行動するようになり、裏切りや腐敗が横行し、素朴な信仰心や信頼関係は失われてしまいました。そんな時代にアラゴンの新しい王が選ばれ、アラゴンは全く違う国になってしまいました。