フルドリッヒ・ツヴィングリ(6)
文字数 941文字
自らの力を頼むところが多かったツヴィングリは、当時チューリッヒとベルンが主導権をとってスイス全域を支配できると考えていた。しかし、同盟者を必要としないツヴィングリの態度を危惧したベルンはチューリッヒから離れた。それでもツヴィングリは意に介さず、カトリック諸州の経済封鎖を行った。
カトリック側にたつ森林五州(ウーリ州、シュヴィーツ州、ウンターヴァルテン州(オプヴァルデン、ニトヴァルデン2準州の前身)、ルツェルン州、ツーク州)とフリブールは経済封鎖に耐えかねて兵力を結集。再び武力衝突の危険性が高まった。ツヴィングリはカトリック側の先手を討とうとチューリッヒの兵力を率いてカッペルに進軍した。しかし、カトリック側の軍勢が不意を突いて、1531年10月11日にカッペルを急襲したため、チューリッヒ軍は打ち破られ、乱戦の中でツヴィングリも戦死した。これを第2次カッペル戦争という。ツヴィングリが戦死した時身に帯びていたという兜と大小2本の剣が、チューリッヒ国立博物館に安置されている。その後、数度の戦闘の後にカッペル協定が結ばれてスイス内戦は終焉した。
カトリックもそうでしたが、聖職者が権力を持って政治的な影響力が強くなったり自ら戦いに参加するのは根本的なところで間違っていると思います。でもこのような極端な人物の方がカリスマとして崇められて独裁者になってしまうのですね。
ツヴィングリの後を継いでチューリッヒの宗教指導者となったのはハインリヒ・ブリンガーであったが、その影響力はかつてツヴィングリが持っていたほどのものではなかった。チューリッヒ改革派教会はツヴィングリが死んでから16年後の1549年にカルヴァンの呼びかけに応え、合同信条を作成したチューリッヒ協定を結ぶことでカルヴァン派と合流し、スイス改革派教会の基礎を築いた。