リチャード2世(3)
文字数 1,517文字
1383年に親政を開始したリチャード2世は、側近のマイケル・ド・ラ・ポールやオックスフォード伯ロバート・ド・ヴィアーらを重用、ド・ラ・ポールをサフォーク伯に、オックスフォード伯をアイルランド公に叙爵した。またランカスター公に対抗するため、この時点で後継男子を得ていなかったリチャード2世は、クラレンス公の外孫である従甥のマーチ伯ロジャー・モーティマーを王位継承者に指名する。さらに2人の叔父にも爵位を与え、1385年にケンブリッジ伯をヨーク公、エセックス伯をグロスター公にそれぞれ叙爵した。
しかし外交では失敗が重なり、フランドルの都市ヘントで反乱を起こしたフィリップ・ヴァン・アルテベルデはイングランドの支援を求めたが、1382年のローゼベーケの戦いでフランス軍に討ち取られ、出遅れる形で翌1383年に出兵したイングランド軍も成果がないまま撤退、金の無駄遣いに終わった。
のみならず、スコットランドとフランスが手を組みイングランドへ逆侵攻する恐れが生じたため、1385年にリチャード2世はスコットランドへ遠征したが、敵側が焦土作戦を取ったためこの遠征も戦果を挙げられず、引き上げざるを得なかった。
リチャード2世はこれに反発して1387年2月に側近たちとロンドンを離れ、チェシャー・ウェールズで徴兵を始め、裁判官を味方につけて王権の侵害を根拠に議会の決定を無効とし、反逆罪にかけることを企てた。対して訴追派貴族と呼ばれる議会派の3人の貴族(グロスター公を筆頭にアランデル伯リチャード・フィッツアラン、ウォリック伯トマス・ド・ビーチャム)も軍備を整え、新たにアランデル伯の婿ノッティンガム伯トマス・モウブレーと、リチャード2世の従弟でランカスター公の息子でもあるダービー伯ヘンリー・ボリングブルック(後のヘンリー4世)を加えて迎撃態勢を整え、12月20日のラドコット・ブリッジの戦いでアイルランド公の国王軍を破り、勢いを増した。