ナバラ王カルロス2世(1)
文字数 1,482文字
ボヘミア王ヨハンの娘でカール4世の姉であるボンヌとフランス王ジャン2世の子がフランス王家や他の重要な貴族の祖先になっているのですが、娘もそれぞれいろいろなところに嫁いでいました。その中でジャンヌが結婚したナバラ王カルロス2世が、悪人王という渾名がついていたので、どんな悪いことをしたのか気になって(笑)調べてみました。作品集は下の画像から入ってください。
父からエヴルー伯領を、母からピレネー山麗のナバラ王国の他にコタンタン半島の一部やモルタン伯領、ヴェクサンにあるポントワーズやボーモン・シュール・ワーズやアスニエール・シュール・ワーズなど(1328年に母がフランス王位請求権及びシャンパーニュとブリーとの引替に取得していた)を相続した。カルロス2世はルイ10世の女系の孫であり、長い間フランス王位を取り戻すことを熱望していた。エヴルー家はフィリップ3世の男系の子孫であり、ヴァロワ家が断絶した場合は最有力の後継候補であった。
カルロス2世は上記の理由に加え、姉ブランシュがフランス王フィリップ6世の後妻だったこともあり、初めは懐柔のためフランス宮廷で育てられた。フィリップ6世の息子ジャン2世もこの方針を受け継ぎ、1352年に娘ジャンヌをカルロス2世に娶わせたが、カルロス2世の方は徐々にフランス王位の野心をあらわにした。
ルイ10世(1289年ー1316年)はフランス王(在位1314年ー1316年)およびナバラ王(在位1305年ー1316年)フランス王フィリップ4世とその妃であるナバラ女王ファナ1世の長男。フィリップ5世、シャルル4世の兄。その治世の中、諸外国との争いに明け暮れたため、強情王または喧嘩王とあだ名される。
ルイ10世の短い治世の中、フランスとブルゴーニュ公国やイングランドとの争いが絶えなかった。王はフランス王軍をブルゴーニュとの境界に動員し、穀物などの禁輸を命じたが、効果を挙げられなかった。1316年、ジュ・ド・ポームの後、冷たいワインの飲み過ぎで胸膜炎か肺炎になり、ほどなく崩御した。王妃クレマンス・ド・オングリーは妊娠中だったため、子が生まれるまで王弟フィリップが摂政を務めた。ルイ10世の崩御から5ヶ月後、生まれた子供は男子でジャン1世として即位したが、一週間たたずに夭折し、王弟フィリップがフィリップ5世として王位を継承した。ジュ・ド・ポームが好きで、世界初の屋内テニスコートの建造を命じたという。