ブルターニュ公ジャン3世
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父の跡を継いでブルターニュ公となると、彼は父と2度目の妃ヨランドの結婚の正統性に挑み、アルテュール2世の遺産に対しての長い闘争を開始した。1315年、彼はルイ10世が行った対フランドル遠征に参加した。彼はフランス王側についてフィリップ・ド・ヴァロワ(後のフィリップ6世)とともにカッセルの戦いに挑み、負傷している。
子供がないジャン3世は自らの相続人として最も近い異母弟ジャン・ド・モンフォール(彼の憎んだ継母の子)と複雑な関係にあり、自らの死後はブルターニュをフランス王領にしたいという思いがあった。彼は同母弟ギーの娘であるジャンヌ・ド・パンティエーヴルを、フィリップ6世の甥であるシャルル・ド・ブロワと結婚させた。
1338年、ジャン3世はフランス王支援のためブルターニュ艦隊を低地諸国のスロイスへ送ったが、艦隊はイングランド海軍に撃破された(スロイスの海戦)。その後彼はフィリップ6世支援に向かい、フランドルから帰路の途中のカーンで死去した。
ジャン3世が継承問題を片付けなかったため、彼の死後ブルターニュ継承戦争が始まった。
ジャン3世は3度結婚しているが子供がなかった。1度目、2度目の妃とは死別している。
・1297年、イザベル・ド・ヴァロワ(1309年没、シャルル・ド・ヴァロワとマルグリット・ダンジューの子)
・1310年、イザベル・ド・カスティーユ(1328年没、カスティーリャ王サンチョ4世の子)
・ジャンヌ・ド・サヴォワ(サヴォワ伯エドアルドの子)