マティルダ・オブ・イングランド(3)
文字数 919文字
1135年に父が死ぬとマティルダはアンジューに留まったが、その隙にエティエンヌがロンドンに入ってイングランドを掌握し、イングランド王スティーブンとなった。スティーブンはヘンリー1世の生前、1127年の誓約で王位を請求しないことを重ねて誓約していたため、マティルダは誓約違反をローマ教皇庁に訴え出たが、スティーブンは弟がウィンチェスター司教ヘンリーだったことに加え、ローマ教会と友好関係にあったため却下された。
しかし、王位簒奪の過程で教会や諸侯に数多くの譲歩をしたスティーブンの王権は次第に弱体化してゆく。諸侯の統制を失ったと見たマティルダは1139年にノルマンディーからイングランドに上陸、スティーブンとの間で王位を争って戦いを始めた。この結果、スティーブンとの間で王位を争って戦いを始めた。この結果スティーブンの治世は内乱に明け暮れることとなり、史上「無政府時代」と呼ばれる時代が到来する。一方、夫は内乱に無関心でノルマンディー侵攻を優先、1142年から1141年から1144年にかけてノルマンディーを征服した。
マティルダを支持する異母兄のグロスター伯率いるアンジュー伯派は、1141年2月に第一次リンカーンの戦いでスティーブンを破り捕虜にするという大勝利を挙げた。マティルダはイングランド人の女君主を名乗ってロンドンに至り、ロンドン入城とともに戴冠して女王となる予定を立てていたが、これに先立ってロンドン市から寄せられた減税の陳情をにべもなく却下したことから、ロンドン市民はマティルダに愛想をつかして城門を堅く閉ざし、その入城を拒むに至った。そうこうするうちに王妃マティルダ・オブ・ブロインが反撃に出て9月にウィンチェスターでグロスター伯を捕獲、捕虜交換でスティーブンは解放されまもなく内戦が再開、これでマティルダ戴冠の機会は永遠に失われた。