ジギスムント(1)
文字数 1,586文字
僕にもちょうど7歳年下の異母弟がいます。僕の母が亡くなってすぐ父さんは再婚し、僕は継母に苛められました。そして異母弟が生まれてから僕は修道院に入れられたので、彼に罪はないとわかっていてもずっと恨んでいました。
アンジュー家出身のハンガリー王兼ポーランド王ラヨシュ1世は東欧に「大アンジュー帝国」とも呼ぶべき一大勢力を築いたが、男子に恵まれず2人の娘を残して1382年に没した。ラヨシュは遺言で長女マーリアを、ルクセンブルク家出身で神聖ローマ皇帝兼ボヘミア王カール4世の息子の1人であるジギスムントと結婚させ、両王国の共同統治者とするものとしていた。
ハンガリーでも王位継承を巡って混乱が起きていた。1385年9月末、ジギスムントはオーフェンでハンガリー女王マーリアと結婚したが、この結婚式に賛成したハンガリー貴族はラツクフィ家などごくわずかで、大部分の大貴族(マグナート、代表的なのがハンガリー南部を支配するガライ家とホルヴァティ家)は反対していた。特にホルヴァティ家は、アンジュー家の同族であるナポリ王カルロ3世に王位に就くように要請し、カルロもこれに応える形で軍を率いてハンガリーに侵攻し、ハンガリー王カーロイ2世として即位する。
カーロイ2世の簒奪に対し、ジギスムント側に寝返った副王ガライ・ミクローシュとマーリアの母エルジェーベトは共闘してカーロイ2世を殺害した。ホルヴァティ家は新たにカーロイ2世の遺児ナポリ王ラディズラーオを新たな王に立てようとし、さらには和平に赴いたマーリアの一行を襲った。結果、ガライは殺され、エルジェーベトは獄死し、マーリアは幽閉された。
後にガライ家とホルヴァティ家は和解し、マーリアも釈放されたが、その代償としてジギスムントは大貴族と同盟して統治する義務を課せられ、これが破られた場合は大貴族が武力を行使することさえ認めさせられた(公式的同盟)しかも、内戦中にハーリチをポーランドに奪取された。このような犠牲を払いながらも、1387年にジギスムントは自らも晴れてハンガリー王として即位した。ただし、ナポリ王家との抗争は後々まで尾を引くことになる。