ゴドフロワ・ド・ブイヨン(7)
文字数 1,152文字
1097年2月、ゴドフロワと彼の軍勢はボスポラス海峡を超えてアナトリア半島に入った。そしてその地で、ターラント公ボエモン、フランドル伯ロベール、ヴェルマンドワ伯ユーグらの軍勢と合流した。同年5月、ビザンツ帝国の軍勢と共に進軍を続けた十字軍は、帝都コンスタンティノープル近郊に位置する都市ニカイアに到着した。
ニカイアは紀元前310年頃、アレクサンドロス大王の死後、小アジアを支配したアンティゴノスによって建設されました。当初はアンティゴネアという名前でしたが、後継者戦争でアンティゴノスが敗れると、街はテッサリアの将軍リュシマコスのものとなり、リュシマコスは妻の名にちなんでニカイアと街の名を改めました。
325年に、ローマ帝国皇帝コンスタンティヌス1世により、当時キリスト教会内で紛争の的となっていたさまざまな教義についての対立を討議する会議を開く場所としてニカイアが選ばれました。これが第一回ニカイア公会議です。会議の結果、キリスト養子論を唱えるアリウス派が異端とされ、アタナシオスの主張する父なる神と子なるキリストを同一本質とする教理が全会一致で教会の公認の教理と宣言されました。
このニカイア公会議でアタナシオス派の教義が採用されたことにより、キリスト教の、そして世界の歴史は決定付けられました。もしこの時にアリウス派が異端とされなければ、後に繰り返し行われたユダヤ人の虐殺はなかったように思います。アタナシオス派の教義で、キリスト教徒は他の宗教を認めることはなくなり、何かきっかけがあればすぐに虐殺を行う残虐さを身に付けてしまいました。
ニカイアは1085年からセルジューク朝に占領されており、十字軍とビザンツ軍は包囲戦を敢行した。この包囲戦の際、ゴドフロワはあまり活躍せず、代わりにボエモンが包囲戦を指揮した。十字軍・ビザンツ連合軍はこの包囲戦を優位に進めていたものの、ビザンツ軍は極秘の会談をニカイア守備兵と行い、6月19日に十字軍を出し抜いてニカイアを占領した。包囲戦の終結後に、統制の取れていない十字軍が帝国の重要な都市であるニカイアを略奪してまわる可能性を排除するのが目的であった。ビザンツ軍の抜け駆け行為に対し、十字軍の指導者たちは一定の理解を示したものの、結果的に両者の間に不信感が生じたのは言うまでもない。