ブルターニュ公ジャン4世(2)
文字数 1,139文字
イングランドと同盟関係にあり、継承戦争中数年の亡命期間をイングランドで過ごしたジャン4世は、イングランドの支援なしに勝つことはできなかった。彼の最初の妃はエドワード黒太子の妹であり、2度目の妃は黒太子の継子であった。また幾人かのイングランド人傭兵隊長や領主に要塞とその周辺の管理を委託しなければならなかった(例としてブレスト)。これら外国の軍隊や悪党のイングランド領主が公の周囲や政権・公国内に存在することをブルトン人貴族から非難された。
翌1373年にイングランド軍がブルターニュに上陸すると、ブルターニュ貴族でシャルル5世に仕えていたフランス王国大元帥ベルトラン・デュ・ゲクランとオリヴィエ・ド・クリッソンが迎撃に向かい、ブルターニュのほとんどを征服した。ジャン4世はフランス軍に攻め込まれ、ブルトン人貴族の加勢なしに守り切ることができず、立場を失った彼は新たにイングランドに亡命せざるをえなかった。
1378年12月、シャルル5世はジャン4世に対する懲罰として公国を没収し、フィリップ2世がプランタジネット朝に対してしたように、公国をフランス王領に併合した。だが彼の公国召し上げは非常に過酷で、独立を侵されたブルトン人貴族はフランスに反乱を起こし、かつてジャン4世と争っていたジャンヌ・ド・パンティエーヴルでさえも先頭に立って反乱に加わった。
ジャン4世はイングランド軍とともに翌1379年8月にディナールに上陸し帰国、公国の支配権を取り戻した。イングランド軍は、公国の再征服を行うジャン4世がそれら征服地に対して負う債務を保証するため、4つの海上要塞、戦略的要塞である10箇所の城を攻略した。このブルターニュ公の「凱旋」は伝統歌An Alarc'h(ブルトン語で白鳥)の主題となっている。ブルターニュ独立の象徴として、様々な現在の芸術家が取り上げている。