アルフォンソ11世(1)
文字数 1,476文字
アラゴン王はフアン1世の弟マルティン1世で後継者がいなくなり、カスペの妥協でカスティーリャの王子フェルナンド1世がアラゴン王に選出されました。トラスタマラ王朝がどのようにしてできたかを知るために、エンリケ2世の父アルフォンソ11世から調べてみます。作品集には下の画像から入ってください。
生後13ヶ月で即位したが、余りにも幼いため5人の王族が後見人グループを形成して政治を行うことになった。メンバーは母コンスタンサ、祖母マリア・デ・モリナ、叔父ペドロ大公、大叔父フアン大公、そしてフアンの従弟にあたるビリューナ公フアン・マヌエルが選ばれた。
しかし5人はバラバラに行動してまとまりに欠け、数年で次々とメンバーが死んだこともありカスティーリャは乱れた。まず1313年に母が急死、続いてナスル朝グラナダに介入し支配下の町を攻略していたペドロとフアンが1319年にグラナダの反撃に遭い敗死した。1321年に祖母も亡くなり後見人はフアン・マヌエルしかいなくなってしまった。
新たな後見人にペドロの弟フェリペ、フアンの同名の息子フアン・エル・トゥエルト(隻眼のフアン)が選ばれたが、3人はカスティーリャを分割して対立、内乱で領土は荒廃し農民が外国へ逃亡、人口減少と悪循環に陥った。
余の娘ペトロニーラも1歳でアラゴンの女王になった。余は娘を20歳以上年の離れたバルセロナ伯ラモン・バランゲー4世と婚約させて退位し、余生を修道院で過ごした。アラゴンの統治はほとんど娘婿に任せることになったのだが、結果としてこれがよかったのかもしれない。
こうした中、成長したアルフォンソ11世は1325年に14歳で親政開始し、フアン・マヌエルの娘コンスタンサ・マヌエル・デ・カスティーリャと結婚した。コンスタンサは隻眼のフアンと婚約していたが、王家からのアプローチに応じたフアン・マヌエルが破棄、結婚相手をアルフォンソ11世に切り替えた経緯があった。両者を分断させたアルフォンソ11世は翌1326年にフアンを暗殺、1327年にコンスタンサと離婚し、摂政であったフアン・マヌエルを追放した(同年にフェリペも死去)