ティコ・ブラーエ(3)
文字数 1,301文字
ティコはデンマークで最も有力な貴族家系の1つに後継者として生まれた。彼の両親の出身家系であるブラーエ家とビレ家に加え、ルーズ家、トロレ家、Ulfstand家、ローセンクランス家が彼の系譜に連なっていた。祖父、曾祖父の全員がデンマーク王の枢密院のメンバーを務めた。父方の祖父で同名のテューイェ・ブラーエはスコーネにあるトステルプ城の城主であり、1523年の宗教改革戦争で、メルムー包囲戦の最中に死亡した。
母方の祖父クラウス・ビレはボーフス城の城主で、スウェーデン王グスタフ1世の2番目の従兄弟であり、ストックホルムの血浴において、スウェーデン貴族に敵対したデンマーク王の側に立って参加した。父のオテ・ブラーエはティコの祖父と同じように王室枢密院のメンバーであり、ビエーデ・クラウスダター・ビレと結婚した。彼女もまたデンマークの王宮でいくつかの王領地の称号を保持している有力者であった。両親はいずれもクヌツトープから4キロメートル東のKagerod教会の地下に埋葬された。
ティコは一家の先祖伝来の根拠地であるクヌツトープ城で生まれた。この地はデンマーク領スコーネ(当時)にあるSvalovの北8キロメートルにある。彼は12人兄弟の長男で、このうち8人が成人まで生きた。ティコの双子の弟は洗礼を受ける前に死んだ。ティコは後にこの死に別れた弟のためにラテン語の頌歌(ode)を書いた。これは1572年に印刷され、彼の最初の出版物となった。元々はクヌツトープにあったエピタフ(墓碑銘)は現在は教会のドアの飾り板にあり、少年時代のティコを含む家族全員が描かれている。
まだ2歳の時、ティコは叔父のヤアアン・ブラーエとその妻インガー・オクセに引き取られた。この夫妻には子供がいなかった。オテ・ブラーエがこの夫妻に子供を譲り渡すことに合意した理由は不明である。だが、ティコは兄弟姉妹たちの中でクヌツトープで直接母に育てられていない唯一の子供であった。ティコは後にヤアアン・ブラーエについて「存命中、彼は私が18歳になるまで、何不自由無く育ててくれた。彼は常に私を自分の息子として扱い、私を自身の後継者とした」と書いている。