マルグリット・ド・クリッソン(2)
文字数 1,033文字
私はもうブルターニュでの争いがアルマニャック派とブルゴーニュ派の争いにまで繋がっていることを知ってショックを受けました。私はフランスこそ世界の中心、最も豊かで教養と文化が発展した国と信じていました。そのフランスでこんなにも複雑で陰険な争いがあったことを知り悲しいです。
背後にイングランドとブルターニュの結びつきを恐れたシャルル王太子(後のシャルル7世)の関与があったとされるが、王太子の姉でジャン5世の妻ジャンヌが素早く事態解決に動き、弟の王太子に手紙を送り詰問、家臣を団結させパンティエーヴル家打倒へ向け軍を進めた。
パンティエーヴル家の支持者だったジャン・ド・クラン(ジル・ド・レの祖父)がモンフォール家へ転向したこともあり、シャントソー城は包囲されマルグリットらパンティエーヴル家は降伏、ジャン5世らは解放された。シャントソー城は破却されパンティエーヴル家も厳罰に処され、モンフォール家の優位が確定した。
1387年、パンティエーヴル家のジャン1世・ド・シャティヨンと結婚した。2人の間に4男1女をもうけた。
・オリヴィエ(1404年ー1433年)パンティエーヴル伯
・ジャン2世(?ー1454年)パンティエーヴル伯、ペリゴール伯
・シャルル(?ー1434年)アヴグール男爵
・ギヨーム(?ー1455年)リモージュ男爵
・ジャンヌ(?ー?)シャトーブリアン男爵ロベール・ド・ディナンと結婚、ベルヴィル領主ジャンと再婚