ジョン・オブ・ランカスター(2)
文字数 1,342文字
1422年に兄が崩御すると次の王で甥ヘンリー6世(イングランド王にしてトロワ条約によるフランス王)が幼君であることから、兄の遺言によりベッドフォード公はフランス摂政としてフランス占領地の行政を、弟グロスター公はイングランド国内の行政を執ることになったが、議会はベッドフォード公を護国卿に指名し、グロスター公はベッドフォード公不在時の代理としている。しかしベッドフォード公は兄の遺言通りイングランドの政治については弟に任せ、自身はフランス内のイングランド領であるノルマンディーやパリ(イル=ド=フランス)の統治と百年戦争でのイングランド軍の総指揮に集中した。
翌1423年にはブルゴーニュ派との同盟関係を強化するため、ブルゴーニュ公フィリップ3世の妹アンヌと結婚した。彼女はイングランドとブルゴーニュ派の間に生じた問題の解決に何度も尽力してくれた。しかし、同時に挙行されたブルターニュ公ジャン5世の弟アルテュール・ド・リッシュモンとフィリップ3世とアンヌの姉マルグリットとの結婚を通してブルターニュとも同盟を結ぼうとしたが、ブルターニュ公は中立を貫き、リッシュモンに至っては後にフランスへ走っているためブルターニュの抱きこみに失敗した。
1424年のヴェルヌイユの戦いでは自らイングランド軍の陣頭指揮をとり、ブールジュのシャルル7世に雇われたスコットランドやロンバルドの傭兵軍団を主力とするフランス軍を破り、イングランド軍の最優勢期を築いた。しかし資金不足でロワール河畔への進軍ができず、この勝利を有効に生かすことはできなかった。
ベッドフォード公の抱える問題はフランスでは孤軍奮闘状態になっていることだった。同盟者のはずのフィリップ3世はアルマニャック派(シャルル7世勢力)との戦いにはほとんど関心がなく、フランドル政策に熱中していた。イングランド国内でもグロスター公は北部国境スコットランドを危険視してフランス政策に消極的だった。外部からの援助が期待できないベッドフォード公としては、せめてノルマンディー公領をはじめとする占領地からの収入は固める必要があり、そのためにノルマンディー三部会を定期的に開催した。また、占領統治の手足となる官僚養成のため1431年にカーンでカーン大学を設立している。