ジャン・カルヴァン(2)
文字数 721文字
1536年3月、26歳の時にバーゼルで『キリスト教綱要』(初版本、ラテン語)を刊行。この本は広く読まれ、その名を世に知られた。カルヴァンは名高い論争家で、論敵との議論の必要性から『キリスト教綱要』も5度にわたって改訂・増補され、1559年出版の最終版は初版本(1巻本)の数倍もの分量になった。1541年にはフランス語版が刊行された。
同年、旅行中に隅々滞在したスイスのジュネーヴ市で、牧師のギヨーム・ファレルに要請されて同市の宗教改革に協力する。1538年、教会勢力の拡大を恐れた市当局によってファレルらと共に追放の憂き目を見るが、約半年間バーゼルに滞在したのち、ストラスブール(シュトラースブルク)に3年間滞在した。
カルヴァンは檄文事件ではプロテスタントへの弾圧を目の当たりにしてバーゼルに亡命し、ジュネーブからも1度は追放されています。こういう苦労をしたり恐怖を味わった人間の方が、自分が権力者になった時には徹底して敵対する者を弾圧するように思います。
そして1541年には、市民の懇請によってジュネーヴに戻る。以後30年近くにわたって、神権政治(または神政政治、セオクラシー)を行って同市の教会改革を強力に指導した。ジュネーヴにおいてカルヴァンは厳格な統治を行い、市民の日常生活にも厳しい規律・戒律を求めた。