ブルターニュ継承戦争(5)
文字数 1,157文字
1357年にジャン4世が成人してブルターニュ公になったが、同時にポワティエの戦いの後のイングランド、フランス間の和平協定の中でシャルル・ド・ブロワも釈放されたため、再び2人のブルターニュ公が存在することになった。
1364年ジャン4世、イングランドのジョン・チャンドスが率いるモンフォール軍とシャルル・ド・ブロワ、ナバラ王カルロス2世とのコシュレルの戦いで名声を得たベルトラン・デュ・ゲクラン率いるブロワ軍がオーレの戦いで激突した。両者とも長い争いに決着を付ける覚悟を決めており激戦となったが、モンフォール軍の勝利に終わり、シャルル・ド・ブロワは戦死し、ベルトラン・デュ・ゲクランは捕虜となった。パンティエーヴル女伯ジャンヌも相続権の放棄を了承し、ジャン4世が唯一のブルターニュ公となった。
フランス王シャルル5世がジャン4世と和解し、封建的臣従の礼(オマージュ)を取らせることにして(1366年までジャンはパリに出頭しなかった)、ブルターニュ公として承認したため、ブルターニュ継承戦争は正式に終結した。同時に、相続における男系の優位も確認された。
しかし、フランス国王とのつながりの強いブルターニュの有力領主(フランス大元帥になったオリヴィエ・ド・クリッソンら)を抑えるために、ジャン4世とイングランドとの関係は続き、1372年にイングランドとブルターニュが同盟を結んだことが発覚したため(秘密同盟であったため、この同盟の結果再び与えられたリッチモンド伯の称号はイングランド向けの外交文書でしか名乗っていない)、1373年にジャン4世は追放され、1378年12月18日にはブルターニュはフランス王領への併合が宣言された。