ジョン・オブ・ランカスター(5)
文字数 1,248文字
ジャンヌを処刑した後、ルーヴィエに攻勢を開始させ、本国からの増援も得て10月に同市を陥落させることに成功した。さらに12月17日にはヘンリー6世をパリのノートルダム大聖堂でフランス王として戴冠させたが、イングランド軍の劣勢が覆しがたくなりはじめていたため、戴冠式後にはヘンリー6世を早々に帰国させた。
1432年以降にはイングランドの敗色が目立つようになり、同年2月20日にはシャルトルをフランス軍に奪還された。その数か月後にはパリとシャンパーニュの間に位置し、輸送隊を組織するのに重要であったラニ攻囲を撤収する羽目になった。11月にはブルゴーニュ派との懸け橋の1つである妻アンヌを失った。1434年にはノルマンディーのベサン地方がベッドフォード公の課した重税に耐え切れずに蜂起を開始した。他のノルマンディー地方もほとんど統制が利かなくなっており、野盗が急増して無法地帯と化していた。
晩年には主戦派であるグロスター公からも戦況悪化の責任を追及されるようになり、1435年9月14日に失意のまま46歳でルーアンで亡くなった。1週間後の9月21日にはついにフィリップ3世とシャルル7世がアラスの和約を結んで和睦し、1436年4月にはパリが陥落した。以後イングランドは劣勢を覆せず、百年戦争の終戦を迎えることになる。
ベッドフォード公は晩年に国王ヘンリー6世に宛てた書簡の中で次のように書いて自らの敗因を「ラ・ピュセル(ジャンヌ)」の登場に求めている。「オルレアン攻囲に着手した時までは万事が陛下にとって好都合に進んでおりました。(略)かの地にあまた集結しておりました陛下の軍に一見したところ神の御手によるとも思える大打撃が加えられました。その原因の大なるものは確固たる確信の欠如と、兵士たちが悪魔の弟子・手先のピュセルなる者に対して抱いていた許しがたい恐れにあります。この者はまやかしの魔法、妖術を操ります。かかる打撃と敗北がひとえに陛下の軍の数を大幅に減少せしめたのであります」