リニー伯ジャン2世
文字数 1,920文字
ブリエンヌ伯ジャンとその妻マルグリット・ダンギャンの間の息子として生まれた。父の死後、ボールヴォワール城を相続した。百年戦争中のアルマニャック派とブルゴーニュ派の内戦においては、2人の兄ピエールおよびルイとともに、イングランド=ブルゴーニュ陣営についた。
1414年、主君のブルゴーニュ公ジャン1世にアラス代官の職を与えられる。1418年、サンリスの町をアルマニャック派軍勢の包囲から解放した功を認められ、パリ軍事総督に任命された。1421年のモン=アン=ヴィムーの戦闘で負傷した。1423年よりイングランド=ブルゴーニュ連合軍の下での指揮官となり、ランドルシー包囲戦やクラヴァンの戦いに参加した。
翌1424年、ベッドフォード公ジョン・オブ・ランカスターの指揮下でシャルル7世軍からギーズを奪回し、翌1425年にギーズ伯領を授けられる。1430年1月10日、兄ピエールとともにブルッヘにおいて金羊毛騎士団の最初の会員に選出された。
コンピエーニュ包囲戦に参加した際、1430年5月23日に自身の従士がジャンヌ・ダルクを生け捕りにした。コンピエーニュに陣取るシャルル7世派の軍勢に彼女を奪回される恐れがあったため、ジャンは自分の居城ボールヴォワール城にジャンヌ・ダルクを連行し、伯母と妻に彼女を監視させることにした。ジャンの許には百年戦争の全ての陣営からジャンヌ・ダルクの身代金支払いの申し出が舞い込んだ。主君のブルゴーニュ公フィリップ3世は、同盟者のイングランド陣営に身柄を引き渡すよう求めた。
伯母はジャンに、もしジャンヌ・ダルクをイングランド人に売り渡せばリニー伯領の相続権を剥奪するとまで脅しをかけたが、9月18日に死去した。結局相続権剥奪の恐れが無くなったジャンはボーヴェ司教ピエール・コーションおよびパリ大学の要求に応じて1万リーブル・トゥルーノワの身代金と引き換えにジャンヌ・ダルクをイングランド人に引き渡した。
ジャンヌを守っていた伯母が亡くなったらさっそく引き渡してしまう、酷い話です。ただ、この時代は捕虜を取ることも出世につながったのかもしれませんが・・・人の命をお金に換算し、地位や名誉を得るために取引をする、怖ろしいことです。
ジャンはその後もシャルル7世派の陣営との戦いを続け、その名声は高まっていった。1435年には、主君ブルゴーニュ公と共に、ブルゴーニュ陣営とフランス王陣営の争いを集結させるアラスの和約に調印した。1441年に死去し、カンブレー旧大聖堂に葬られた。1418年にモー子爵領の女子相続人ジャンヌ・ド・ベテューヌ(1449年没)と結婚した。妻はマルル伯・ソワソン伯ロベールの寡婦であった。間に子供は無かったので、遺産は甥のサン=ポル伯ルイに引き継がれた。なお、1435年に妻の連れ子ジャンヌ・ド・マルルを甥ルイに嫁がせている。