スコットランド王ロバート1世(2)
文字数 942文字
若い頃のことはあまり知られていない。恐らくは北イングランド、スコットランド南東部のアングロ=フランス混合文化及びキャリック、アイリッシュ海のゲール文化で育ち、父方の言語がフランス語、母方の言語がゲール語であったと思われる。
習慣に従う形で現地の家族(Barbourは父方の叔父と言及する)とともに育てられたと思われる。ロバートの弟エドワードは又従兄弟にあたるドムナム・オニールとともに育ったと思われる。ロバートが最初に歴史上に登場するのはイスレー卿アレグザンダー・オグ・マクドナルドによって発行された特許状の立会人としてである。ロバートの名はアーガイル司教、アラン島の教皇代理及びキンタイアの聖職者、その父、キャリックからのゲールの公証人の主人とともに現れる。1292年に母が死ぬと、18歳のロバートはキャリック伯を継承した。
1290年、スコットランドのアサル王家が絶え、13人の王位請求者が乱立した(スコットランド独立戦争)ロバート1世の祖父である第5代アナンデイル卿ロバート・ドゥ・ブルースもその一人で有力な候補者であった。この紛争に調停者として介入したイングランド国王エドワード1世は、1292年11月、「スコットランドの守護者」を代表する形で、ジョン・ベイリャルにスコットランド王位を授けた。この直後、第5代アナンデイル卿の地位と王位請求権をロバート1世の父に譲ったが、おそらくこれはジョンに臣下として忠誠を誓うことを避ける意図によるものである。ブルース父子はジョンを簒奪者と見做し忠誠を誓ってはいなかった。