タンクレード(4)
文字数 1,054文字
四方から圧迫される状況に失望したボエモン1世は助けを求めるために南イタリアに帰ってしまい、タンクレードは再び摂政となった。またエデッサ伯のボードゥアン2世がハッラーンの戦いで捕虜となったため、タンクレードはエデッサ伯国の摂政も兼任することになった。
1105年にはアレッポのリドワーンと戦い、オロンテス川以東の領土をアレッポから奪い返した。ボードゥアン2世は1107年に釈放され、タンクレードはエデッサ伯国の実権を取り戻そうとするボードゥアン2世との争いに敗れてアンティオキアに戻った。タンクレードはラタキアを再び奪い、アンティオキア公国をシリア随一の強国とした。
やがて、フランク人(十字軍国家の西洋人)とムスリムは共通の敵に対して、時と場合に応じて手を結ぶようになる。1108年、ムンキズ家が支配するシリア中部のシャイザル城での戦いでは、タンクレードは贈り物の馬を得て、兵を引き上げている。シャイザル側の使者であった詩人ウサマ・イブン・ムンキズの記録では、馬を連れてきたクルド人の若者の美貌をたたえ、後に彼を捕虜にしたとしても必ず釈放しようと約束する。しかしこのアンティオキア摂政は約束をたがえ、後に彼を捕虜とした際には閉じ込めて拷問し右目をくりぬいたという。
シャイザルはアンティオキア公国とトリポリ伯国の中間にあたり、タンクレードはたびたびこの城を囲んだ。1111年にはバグダードのセルジューク朝本家がシリアへ遠征軍を送った。途中シャイザルからの救援要請でセルジューク軍はアレッポからシャイザルに向ったが、タンクレードもエルサレム王国やトリポリ伯国、エデッサ伯国に支援を要請し、シャイザルで戦った。戦いは両者引き分けに終わり、補給を断たれた十字軍国家側は撤退し、セルジューク朝側も一つも町を取り戻さないままバグダードへ退却した。タンクレードはシャイザールの近くに城を建て、監視を行わせた。