バル公ロベール1世(1)
文字数 1,177文字
バル伯アンリ4世とその妻ヨランド・ド・ダンビエールの間の三男、末息子として生まれた。母はフランドル伯ロベール3世の次男ロベール・ド・カッセルの娘である。誕生直後に父が亡くなり、兄エドゥアール2世が母の摂政の下で家督を継承した。幼いロベールと兄エドゥアール2世が四旬節の時期に病気になった際、心配した母は、クレメンス6世教皇より肉食を許可される特免を出してもらっている。
1352年に兄が死ぬと、ロベールは7歳で伯爵家の家督を継ぐが、母が引き続いて摂政を務めた。だが直後に母がロングヴィル伯フィリップと再婚すると、母の摂政の地位は不安定になった。ロングヴィル伯は、ヴァロワ家のフランス王ジャン2世の王位に異議を唱えるナバラ王カルロス2世(悪人王)の弟という問題のある人物だったからである。
大叔母のサリー伯夫人ジャンヌが、ヨランドに代わって自らが甥孫の摂政に就くべきであると、ジャン2世に打診した。1352年6月5日、パリ高等法院はバル伯爵領を王の監督下に置くことを宣言した。ジャン2世は同年7月27日にはサリー伯夫人ジャンヌを摂政に任命した。ヨランドは最初は摂政を自ら退く姿勢を見せたが、すぐに態度を翻し、ジャンヌと戦うために兵を募り始めた。このためジャン2世は軍を差し向け、1353年7月2日、ヨランドに再び摂政の地位を退かせている。
1353年、ロベールは神聖ローマ皇帝カール4世により、バル伯位よりも上位のポンタ=ムッソン侯(辺境伯)に叙せられた。これはバル伯領の貴族層にとっては不合理なものに思われた。ポンタ=ムッソン侯領よりもバル伯領の方が、明らかに強大だったからである。この変則的な状況を解決するため、カール4世帝は1354年3月13日にバル伯領を公爵領に昇格させることを決めた。