バル公ロベール1世(1)

文字数 1,177文字

今日はヨランド・ダラゴンの母方の祖父バル公ロベール1世について紹介します。作品集は下の画像から入ってください。
ロベール1世(1344年ー1411年)は、フランス北東部の諸侯。バル伯(1352年ー1354年)、バル公(1354年ー1411年)、ポンタ=ムッソン侯(1353年ー1411年)。
バル公ロベール1世の妻マリー・ド・フランスはフランス王ジャン2世の娘なので、ヨランド・バルとヨランド・ダラゴンにもジャン2世の血が流れていることになります。
バル伯アンリ4世とその妻ヨランド・ド・ダンビエールの間の三男、末息子として生まれた。母はフランドル伯ロベール3世の次男ロベール・ド・カッセルの娘である。誕生直後に父が亡くなり、兄エドゥアール2世が母の摂政の下で家督を継承した。幼いロベールと兄エドゥアール2世が四旬節の時期に病気になった際、心配した母は、クレメンス6世教皇より肉食を許可される特免を出してもらっている。
そんなこともあるのですね。
1352年に兄が死ぬと、ロベールは7歳で伯爵家の家督を継ぐが、母が引き続いて摂政を務めた。だが直後に母がロングヴィル伯フィリップと再婚すると、母の摂政の地位は不安定になった。ロングヴィル伯は、ヴァロワ家のフランス王ジャン2世の王位に異議を唱えるナバラ王カルロス2世(悪人王)の弟という問題のある人物だったからである。
私は妻ビオランテと結婚する時は、実家のことについて詳しく調べたわけではないのですが、かなり問題のある人物と再婚していますね。
大叔母のサリー伯夫人ジャンヌが、ヨランドに代わって自らが甥孫の摂政に就くべきであると、ジャン2世に打診した。1352年6月5日、パリ高等法院はバル伯爵領を王の監督下に置くことを宣言した。ジャン2世は同年7月27日にはサリー伯夫人ジャンヌを摂政に任命した。ヨランドは最初は摂政を自ら退く姿勢を見せたが、すぐに態度を翻し、ジャンヌと戦うために兵を募り始めた。このためジャン2世は軍を差し向け、1353年7月2日、ヨランドに再び摂政の地位を退かせている。
えー!こういう理由で王の軍隊が動くこともあるのですか。
1353年、ロベールは神聖ローマ皇帝カール4世により、バル伯位よりも上位のポンタ=ムッソン侯(辺境伯)に叙せられた。これはバル伯領の貴族層にとっては不合理なものに思われた。ポンタ=ムッソン侯領よりもバル伯領の方が、明らかに強大だったからである。この変則的な状況を解決するため、カール4世帝は1354年3月13日にバル伯領を公爵領に昇格させることを決めた。
バル公ロベール1世は神聖ローマ皇帝カール4世によってかなり出世しました。フアン1世はそういうことも考えてヨランド・ド・バルと結婚したのですか?
当たり前です!私だってアラゴンの将来のため、結婚相手はよく考えて選んでいます。
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登場人物紹介

ラミロ2世。アラゴンの王様だったがいろいろあって今は亡霊となっている

ペトロニーラ。アラゴン女王の名前を使っているがただの主婦。小説家になりたいと思っている。

フェリペ、16世紀のスペインの修道院で暮らすユダヤ人の少年。父親に捨てられて心を閉ざしていたが、ニコラス医師の指導で本来の明るさを取り戻す。まじめで勉強熱心。

ニコラス医師。修道院内の病院の医師で、孤児たちに勉強も教える。心を閉ざしていたフェリペを気にかけ、特別にラテン語や歴史、医学の基礎なども教える。

フアン1世。不真面目王と呼ばれ業績を残さずに死んだが、娘のヨランド・ダラゴンが勝利王シャルル7世を支えている。

ハインリヒ7世。皇帝フリードリヒ2世の長男でアラゴンの血も引いている。父と対立して反乱を起こし降伏して目を潰され。幽閉されて悲劇的な人生の幕を閉じる。

ペドロ2世。ラミロ2世のひ孫でレコンキスタの英雄。戦闘能力はかなり高く、ファンタジー映画やゲームの中では主要キャラになるタイプだが、なぜか小説の中で影が薄い。

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