スコットランド王デイヴィッド2世(3)
文字数 1,021文字
1357年10月に、10万マークを10年の分割払いという身代金でデイヴィッド2世は釈放された。しかし、貧しいスコットランドに身代金の負担は大きく、またイングランドでの気ままな生活を懐かしがっていたデイヴィッド2世は、身代金の代わりにスコットランド王位をエドワード3世、またはその子供に譲るという密約を交わし、1367年にイングランドへ戻った。
そうですよ。これはあまりにも酷過ぎます。私はアラゴンの財政を傾け、不真面目王というあだ名をつけられました。でも私には夢がありました。娘をフランスの王族に嫁がせてフランスとの関係を強固にし、アラゴンをフランスに負けない文化の中心地にしたいと願っていました。私には政治の才能はなく、宮廷でうまく立ち回ることもできませんでしたが、それでもアラゴンを愛する気持ちは歴代王に負けません。スコットランド王ロバート1世は大変な苦労をしてイングランドと戦い、スコットランドの独立を守りました。それなのにこんなに簡単にスコットランドを手放してしまうなんてあんまりです!
この話を聞いて確かに僕も酷いと思いました。でもデイヴィッド2世は父ロバート1世のイングランドとの壮絶な戦いの話を聞いていて、さらに自分も子供の時から身の危険を感じていました。イングランドの捕虜となり、いくら待遇はよくてもいつ殺されてもおかしくないという立場、何もかも捨てて逃げ出したくなったのかもしれないです。
こうした中、1371年にデイヴィッド2世はエディンバラ城で死去した。1362年に死別した最初の妃ジョーンとの間にも、1364年2月20日に再婚した2番目の妃マーガレット・ドラモンドとの間にも子供はなく、甥で摂政として実質的にスコットランドを統治していたロバート・ステュアートがロバート2世として王位に就き、ステュアート朝を開いた。