ブルゴーニュ公フィリップ3世(3)
文字数 2,129文字
僕はヨランド・ダラゴンがなぜここまで一生懸命シャルル7世のために尽くすのかわからないです。アルテュール・ド・リッシュモンをシャルル7世に紹介したのもヨランド・ダラゴンでした。シャルル7世に必要な人物とうまく交渉して集めている、娘を王妃にしたいという気持ちがあっても、普通はここまではしないと思います。
リッシュモンが王太子の側近になり父の暗殺犯などアルマニャック派の強硬派を処罰したため進展したと思われたが、王太子の寵臣ジェルジュ・ド・ラ・トレモイユと対立して1428年に宮廷から追い出され、ブルゴーニュとフランスの交渉も中断された。
しかし、1429年5月にジャンヌ・ダルクがオルレアンでイングランド軍の包囲網を破り、6月にパテーの戦いでオルレアン周辺のイングランド軍が掃討され、7月にランスで王太子が戴冠式を行ってフランス王シャルル7世を称する頃になると形勢は逆転し始めた。
フィリップ3世は本当に卑怯です。シャルル7世の方が勝ちそうだから慌てて味方のふりをしているのです。ブルゴーニュの一族はみんなそうです。彼らが考えるのはいかに自分が得するかであって、良心や道徳心などは彼らにはかけらもありません。
冬から1430年まで善良公は3度目の結婚準備に追われ、シャルル7世が北フランスで紛争を煽り善良公を牽制するなどしていたため、出兵する余裕はなかった。シャルル7世と休戦協定の期限は1430年3月までだったが、水面下で両者は互いに相手の出方を窺いつつ警戒していた。
一向に協力しない善良公に苛立ったベッドフォード公は1430年5月にコンピエーニュ包囲戦を実行、善良公はフランスとの休戦が切れたこともありイングランドの顔を立てるため参戦したが、戦いは敗北に終わり、善良公の配下のリニー伯ジャン2世はジャンヌを捕えてイングランド軍に引き渡した。
リニー伯ジャン2世がコンピエーニュ包囲戦に参加した際、1430年5月23日に自身の従士がジャンヌ・ダルクを生け捕りにした。コンピエーニュに陣取るシャルル7世派の軍勢に彼女を奪回される恐れがあったため、ジャンは自分の居城ボールヴォワール城にジャンヌ・ダルクを連行し、伯母と妻に彼女を監視させることにした。ジャンの許には百年戦争の全ての陣営からジャンヌ・ダルクの身代金支払の申し出が舞い込んだ。主君のブルゴーニュ公フィリップ3世は、同盟者のイングランド陣営に身柄を引き渡すように求めた。
ジャンの同居する伯母ジャンヌ・ド・リュクサンブールはシャルル7世の名付け親だったこともあってジャンヌ・ダルクに同情的で、甥が彼女をイングランドに引き渡すことに反対した。伯母はジャンに、もしジャンヌ・ダルクをイングランド人に売り渡せばリニー伯領の相続権を剥奪するとまで脅しをかけたが、9月18日に死去した。結局相続権剝奪の恐れのなくなったジャンは、ボーヴェ司教ピエール・コーションおよびパリ大学の要求に応じて1万リーヴル・トゥールノワの身代金と引き換えにジャンヌ・ダルクをイングランド人に引き渡した。