ピエール・コーション(6)
文字数 1,233文字
5月29日にコーションは陪席判事を招集し、ジャンヌが男物の服を着たことを告げ、これは「教会への不服従」の証拠であると論じた。そして戻り異端に該当するので、世俗裁判権(イングランド)に引き渡す旨を決議した。コーションは世俗権力による裁判を要求せず、イングランドは裁判なしで5月30日にもジャンヌを火刑で処刑した。死刑執行日、ジャンヌはコーションに向って「司教さん、私は貴方のせいで死ぬのですからね」と述べたという。コーションは「お前は我々に約束したことを守らなかったし、元の悪行に戻ったため、死ぬことになったんじゃないか」と答えたが、それに対してジャンヌは「貴方が私を教会裁判所の牢に入れ、しかるべき正式な看守の手にゆだねてくれれば、こんなことにはならなかったのに。だから私は貴方を神の前で告発します」と述べたという。
ピエール・コーションが殺したのはジャンヌ・ダルク1人ではありません。その後宗教はますます権力と結びついていますが、敵を異端として残酷に殺すことで自分の正しさを証明する前例を作ってしまい、たくさんの人がこの前例を真似されて殺されました。多くの人が殺される理由の前例を作っているのに、本人はそのことに少しも気づいていない、それが怖ろしいです。
コーションはジャンヌの裁判後もイングランド派の聖職者として行動した。1431年12月16日にパリで開かれたイングランド王ヘンリー6世の「フランス王戴冠式」にも臨席した。1433年にはオルレアン公シャルル・ド・ヴァロワの釈放に関する交渉のためカレーに派遣された。1435年のバーゼル公会議にも出席した。
彼の死はイングランド軍の全面敗退の前のことであり、ジャンヌの復権裁判の時には彼はもうこの世にいなかった。復権裁判では彼の代わりに遺族がジャンヌの裁判における彼の立ち振る舞いについて弁護することになった。遺族全員が代訴人を通じて一切の責任はイングランドにあるとの供述をしている。