ブルゴーニュ公フィリップ2世(2)
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1388年にシャルル6世が親政を始めるとブルゴーニュ公フィリップ2世は権力から遠ざけられたが、1392年にシャルル6世が精神異常の兆候を示すと摂政権をめぐってシャルル6世の弟オルレアン公ルイと争った。
教会大分裂の時、アラゴンの大貴族ルナ家出身のベネディクトゥス13世がアヴィニョンの教皇として即位しました。私の弟マルティンの王妃も同じルナ家出身です。フランスのシャルル5世はアヴィニョンの教皇を支持していましたが、シャルル6世はローマを支持するようになった、その背景にはブルゴーニュ公フィリップ2世の影響もあったのですね。ベネディクトゥス13世はアラゴン王を決めるカスペの妥協の時にカスティーリャの支持を得るためにカスティーリャ王子のフェルナンドに投票するように代理人に指示を出していましたが、アラゴン王となったフェルナンド1世はベネディクトゥス13世を裏切りました。
ミラノ公国との姻戚関係から北イタリア介入を企むオルレアン公を豪胆公が阻止、1400年にローマ王ヴェンツェルが廃位されると豪胆公はヴィッテルスバッハ家出身の新たなローマ王ループレヒトを支持したが、オルレアン公はヴェンツェル支持というように2人はことごとく対立した。
1402年に両者はパリ周辺に軍勢を集め武力衝突寸前となったが、王妃イザボーを始め王族達の説得で和睦、1403年にイザボーを中心とする政権が樹立した。これらの争いは後にブルゴーニュ派対アルマニャック派の争いとなり、フランスを混乱に追い込むが、豪胆公の生存中は、あくまで宮廷闘争の範疇に収まっていた。
この宮廷闘争はやがてイザボー対シャルルの争いにもなります。私の義理の孫シャルル(後のシャルル7世)は父シャルル6世は気が狂い、母イザボーと対立して殺されそうになりました。これは私が死んだ後ですが、本当に酷いです。
ルイ王太子は1415年12月に18歳の若さで早世し子供はいませんでした。マルグリットはその後アルテュール・ド・リッシュモンと再婚しています。ミシェルは1422年に27歳の若さで子供の無いまま急死したが、その死は母イザボーの意を受けた侍女による毒殺であったと言われています。