教皇ボニファティウス8世(5)
文字数 1,790文字
1301年、フランス王フィリップ4世は再びフランス国内の教会に王権を発動し、教会課税を推しすすめようとしたが、この問題について、ボニファティウス8世は1302年に「ウナム・サンクタム(唯一聖なる)」という教皇回勅を発して、教皇の権威は他のあらゆる地上の権力に優越し、教皇に服従しない者は救済されないと宣した。「ウナム・サンクタム」は教皇の首位権について述べた最も明快かつ力強い声明文であり、歴代教皇が政敵から身を守る際の切り札として利用された。さらにボニファティウスは、「聴け最愛の子ら」という回勅を発してフィリップ4世に対して教皇の命にしたがうように促した。
人びとのフランス人意識は高まり、フィリップ4世は汎ヨーロッパ的な価値観を強要する教皇に対して国内世論を味方につけた。ボニファティウス8世は怒ってフィリップを破門にしたが、フィリップの側も悪徳教皇弾劾の公会議を開くよう求めて両者は決裂した。この時、教皇とフランス王の和解に反対し、フィリップ4世に対し、教皇と徹底的に戦うべきことを進言したのが、「レジスト」称された世俗法曹家出身のギヨーム・ド・ノガレであった。
フィリップ4世は、腹心のレジスト(法曹官僚)ギヨーム・ド・ノガレに命じ教皇の捕縛を計った。ノガレの両親はかって異端審問裁判で火刑に処せられていたため、ローマ教皇庁に対する復讐に燃えていた。一方、教皇の政敵で財産没収と国外追放の刑を受けていたコロンナ家は、フィリップ4世にかくまわれていた。ノガレは、コロンナ家がフランスの法廷で証言した各種の情報をもとに、教皇の失点を列記した一覧表を作成し、これを公表した。
ギヨーム・ド・ノガレとシアッラ・コロンナは教皇御座所に侵入し、ボニファティウス8世を「異端者」として面罵して退位を迫り、弾劾の公会議に出席するように求めた。教皇が「余の首を持っていけ」と言い放ってこれを拒否すると、2人は彼の顔を殴り、教皇の三重冠と祭服を奪った。これについては両者の思惑が異なりシアッラは教皇を亡き者にしようと考えていたが、ノガレは逃れられないよう教皇をつかまえてフランスに連行して会議に出席させ、いずれは退任させる腹づもりであった。
2人の思惑が異なったのは、シアッラはコロンナ家を代表してボニファティウス8世に恨みがあり、彼を亡き者にしてしまえばそれでよく、邪魔が入る前にさっさと殺してしまおうと考えました。でもノガレはボニファティウス8世に恨みがあるというよりも、教皇庁のあり方に疑問を抱き、きちんと公会議に出席させてその上で退任させたかったのだと思います。
2人は激しい言い争いになり、それが翌日まで続いたが、そうしている間にローマから駆けつけた教皇の手兵によりボニファティウス8世は救出された。教皇の監禁は3日間にわたり、ナポリ王カルロ2世とシチリア王フェデリーコ2世が教皇に対して暴力が振るわれていることを聞きつけて、その救出のための準備をしていたという。ボニファティウス8世は民衆の安堵と大歓声に迎えられてローマへの帰還を果たしたが、辱められた彼はこの事件に動揺し、同年10月11日、急逝した。高齢と長年の不摂生で腎臓を患っていたのが死因であるとされているが、人びとはこれを「憤死」と表現した。