ヨハン・フォン・ルクセンブルク(2)
文字数 1,312文字
1323年にはルートヴィヒ4世がブランデンブルク辺境伯位をヨハンに与える約束を破ったことや、ハプスブルク家がハンガリー王カーロイ・ローベルトと結ぶなどの影響から、ルートヴィヒ4世とヨハンの関係は対立へと変化した。ルートヴィヒ4世は対立を続けるが、後にハプスブルク家のオーストリア公アルブレヒト2世らの仲介を受けて一旦和解し、ヨハンは捲土重来を期して勢力の拡大を図る。
1327年にシレジア諸侯を臣従させ、シレジアに勢力を伸ばした。ただしシフィドニツァ公ボルコ2世だけは臣従しておらず、ハンガリーやポーランドと同盟を結んで独立を維持したため、シレジアの完全な併合は1368年までかかることになる。
このため、ヨハン不在の間にチェコ人の大貴族達(ロノフ家のインジフ・ス・リペー、ロジュンベルク家のペドル1世など)の勢力が拡大した。1315年と1317年には大貴族との対立が頂点に達し、ヨハンは和解のため譲歩を余儀なくされた。これを転機としてヨハンは対外政策に傾斜し、チェコの不在期間が増大し、1333年にはチェコ貴族達から息子カールが招かれることになる。
祖父ヨハンはボヘミアの統治にも苦労していたのか。だが父上はボヘミアとプラハを発展させることに成功した。そして余の時代、ボヘミアは再び戦乱に巻き込まれてしまった。今度は全く別の、宗教の対立によって・・・