スコットランド王ロバート1世(9)
文字数 937文字
ロバート1世によって殺害されたカミンの従兄弟、第3代バカン伯ジョン・カミンの妻で、マクダフ家=ファイフ伯家による権利の主張、すなわち自身の弟であるファイフ伯ダンカン4世へのスコットランド王位を求めていた(もっともダンカン4世は十分な年齢には達しておらず、その上エドワード1世の監禁下におかれていた)イザベラ・マクダフは到着するのが戴冠式の翌日になってしまい、出席できなかった。そのため2度目の戴冠式が執り行われ、キャリック伯、アナンデイル領主そしてスコットランド国王であるロバート1世の頭の上に王冠が再び置かれた。
1306年6月、ロバート1世はメスヴェンの戦いで敗北し、8月にはストラス・フィランにおいて襲撃を受けて逃走した。ロバート1世の妻と娘、その他の女性は同月にキルドラミーに送られ、同地にてロバートの弟のナイジェル・ドゥ・ブルース、アサル伯、その他残っていた男性の保護下に置かれた。ロバート1世は、ジェームズ・ダグラス卿、ギルバート・ヘイ、自身の兄弟であるトマス、アレグザンダー、エドワード、レノックス伯を含む、自身に忠実に従うわずかな者たちを引き連れて逃走した。
エドワード1世は春になると再び北へ進軍した。その道程で自身の配下の者たちにロバート1世およびその支持者たちに所領を分け与えて、ロバート1世が破門された旨の文書を発行した。ロバート1世の妻エリザベス、娘のマージョリー、姉妹であるクリスティーナとメアリー及びイザベラ・マクダフがテインの至聖所で捕らえられ、残酷な囚人扱いを受けた。メアリーとイザベラはそれぞれロクスバラとベリックの城で檻に入れられ、約4年間その状態におかれたのである。他にも弟のナイジェルが処刑された、ところが1307年7月7日にエドワード1世が死去すると、その息子エドワード2世とロバート1世は戦う事になった。