アルベルト・ブルゼフスキ(2)
文字数 1,115文字
アルベルトはドイツの天文学者ゲオルク・プールバッハの著書『惑星の新理論』に精通していた。ただしプールバッハの理論を含む天動説一般に対して懐疑的だった。アルベルトは月が楕円軌道を描いていることを世界で最初に突き止めた(惑星が楕円軌道を描いていることはかなり後にヨハネス・ケプラーが指摘した)また、月がつねに同じ面を地球に向けていることも指摘している。
アルベルトは天体の位置関係を計算するための表を作成している。1482年にはプールバッハの上記の著書に関する注釈書『ゲオルグ・プールバッハの惑星理論に関する注釈』を著している。これはアルベルトの生徒であったJan Otto de Kraceusaeによってイタリアのミラノで刊行されている。
アルベルトの教えた学生たちにはコペルニクスのほかに、数学者のベルナルド・ヴァポフスキやドイツの詩人でルネサンスの人文学者コンラート・ケルテスなどがいる。ヴァポフスキはコペルニクスの生涯の親友で、ヴァポフスキがポーランド王国とリトアニア大公国の全土の地図を作成した時はコペルニクスは彼のプロジェクトを手伝い、また「地球の動き方に関するコペルニクスの重要な論文」の出版に関してはその実現にヴァポフスキが奔走した。ケルテスはクラクフで中央ヨーロッパ初の文学者組織である「ヴィスワ文学協会」を設立した。
1495年にはフレデリック・ヤギェロン枢機卿の要請で、リトアニア大公アレクサンデル・ヤギェロンの秘書としてヴィリニュスに移った。大公は後にポーランド国王アレクサンデルとして戴冠している。ヴィリニュスでは大公国の外交官として働き、モスクワ大公国のイワン大公(いわゆるイワン雷帝)を相手とした外交交渉を担当した。ヴィリニュスでは外交分野の学術論文『Conciliator(調停者)』を出版している。この論文の手書き原稿は現在見つかっていない。