バレンシアの歴史(3)
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ハイメ1世はアラゴン連合王国の構成国のひとつとしてバレンシア地方にバレンシア王国を築き、ユダヤ教徒、イスラーム教徒、キリスト教徒など、あらゆる宗派が王国の市民として生活することを認めた。レコンキスタ時点でのバレンシア王国には、イスラム教徒12万人、キリスト教徒65,000人、ユダヤ教徒2,000人が暮らしていた。
ハイメ1世がバレンシア王国でユダヤ教徒、イスラーム教徒、キリスト教徒など、あらゆる宗派が王国の市民として生活することを認めたのは素晴らしいことだと思います。僕が生きている16世紀のスペインではユダヤ教徒やイスラム教徒への追放令が出され、またルター派などプロテスタントへの取り締まりも厳しくなって多くの人が殺されています。
1348年の黒死病やそれに続く伝染病、さらには度重なる戦争や暴動によって、14世紀中頃には人口が減少した。君主制の行き過ぎに反発して王国の首都であるバレンシア市民が主導した反乱が起こったほか、1363年と1364年にはカスティーリャ王国の攻撃を受け、早急な新市壁の建設を余儀なくされた。
15世紀はバレンシアの黄金時代と呼ばれ、経済発展を背景に文化や芸術が花開いた。この時期のバレンシアはアラゴン連合王国でもっとも人口の多い都市となっている。繊維製品がけん引する地場産業は大きく発展し、都市の銀行業務を支援する金融機関が設立された。
1492年にクリストファー・コロンブスがカスティーリャ王国から新大陸航海に出発した際には、バレンシアの銀行家がカスティーリャ女王イサベル1世に対して出資している。世紀末には絹製品取引所であるラ・ロンハが建設され、バレンシアはヨーロッパ中から商人を集める商業中心地となった。