フィリップ6世(2)
文字数 1,209文字
1328年、3年前から織布工の市民と農民の反乱に苦しんでいたフランドル伯ルイ1世を援助し、8月23日カッセルで反乱軍に勝利する。翌年、フランスの王位候補者の一人だったイングランド王エドワード3世が、フィリップの王位を認め、ギュイエンヌの所有についてアミアンで臣従の宣誓(オマージュ)を行った。
ところが1333年、エドワードと対立したスコットランド王デイヴィッド2世がフランスに亡命してきた際、フィリップがこれを歓迎した。一方エドワード3世も、アルトワ伯領を巡ってフィリップ6世と対立していたロベール3世・ダルトワの亡命を受け入れていた。フィリップ6世がロベール3世・ダルトワの引き渡しをエドワード3世に要求するも拒否されると、フィリップ6世はエドワードに対してアキテーヌ公領およびポンティーユ伯領の没収を宣言、1337年に始まる英仏百年戦争が勃発した。1340年にはエドワード3世はフランス王を称した。
1340年6月23日、フィリップの艦隊はスロイスの海戦でイングランドに敗れる。さらに1346年8月26日、クレシーの戦いでフランス軍は「いとも大いなる、且ついとも恐るべき」と歴史家ジャン・フロワサールに言わしめたほどの敗北を喫した。翌年カレーを占領され、経済は混乱した。塩の専売特権を制定してこれに対処したが、流れを押しとどめることはできなかった。黒死病が流行し、国内が混乱する中で1350年に崩御し、長子のジャン2世が跡を継いだ。
なお、グルノーブル近辺のドーフィネ領を購入し、息子のジャンに与えられるはずだったが、売買の成立以前にフィリップ本人は崩御したため、孫のシャルル(シャルル5世)に与えられた。これ以降、ドーファンはフランス王太子に与えられたため、その称号となった。
1313年に結婚したジャンヌ・ド・ブルゴーニュとの間に以下の子女をもうけた。
・ジャン2世(1319年ー1364年)フランス王
・マリー(1326年ー1333年)ブラバン公ジャン3世の子ジャンと結婚
・ルイ(1329年)
・ルイ(1330年)
・フィリップ(1336年ー1376年)オルレアン公
・ジャンヌ(1337年)