マルティン・ルター(4)
文字数 906文字
大学で教える傍ら、司祭として信徒の告解を聞いていたルターは、信徒たちもまた罪と義化の苦悩を抱えていることをよく知っていた。そんなルターにとって当時、盛んにドイツ国内で販売が行われていた贖宥状の問題は見過ごすことができないように感じられた。
ルターは知らなかったが、ヨーロッパ全域の中で特にドイツ国内で大々的に贖宥状の販売が行われたのには理由があった。それは当時のマインツ大司教であったアルブレヒトの野望に端を発していた。彼はブランデンブルク選帝侯ヨアヒム1世の弟であったが、初めマクデブルク大司教位とハルバーシュタット司教位を持っていた。さらにアルブレヒトは兄の支援を受けて、選帝侯として政治的に重要なポストであったマインツ大司教位も得ようと考えた。しかし、司教位は本来一人の人間が一つしか持つことができないものである。
アルブレヒトはローマ教皇庁から複数司教位保持の特別許可を得るため、多額の献金を行うことにし、その献金をひねり出すため、フッガー家の人間の入れ知恵によって秘策を考え出した。それは自領内でサン・ピエトロ大聖堂建設献金のためという名目での贖宥状販売の独占権を獲得し、稼げるだけ稼ぐというものであった。
こうして1517年、アルブレヒトは贖宥状販売のための「指導要綱」を発布、ヨハン・テッツェルというドミニコ会員などを贖宥状販売促進のための説教師に任命した。アルブレヒトにとって贖宥状が一枚でも多く売れれば、それだけ自分の手元に収益が入り、ローマの心証もよくなっていいこと尽くしのように思えた。