フランス王ルイ7世(7)
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3月19日にアンタルヤから海路アンティオキアに入ったフランス軍は一息ついた。そこでアリエノールが叔父のアンティオキア公レーモンと共に、エデッサ伯領であるアレッポとカエサリアを奪回することを主張した。この時アリエノールとレーモンは親密であり、情を通じた(近親相姦)とされる説、南フランス風の愛情表現とする説がある。
ルイ7世はこれに反対し、アリエノールを拘束してエルサレムに向かった(エルサレム巡礼にこだわったから、エデッサ奪回はレーモンだけ得をすることに反対したから、自分の家臣共々アンティオキアに残ることを主張したアリエノールに我慢ならなかったとも)
レーモンは戦死し、7月のダマスカスへの攻撃(ダマスカス包囲戦)も失敗に終わって、第2回十字軍はそこで解散した。ルイ7世夫妻は1149年の復活祭までエルサレムに留まり、2人は海路イタリアを経由、パレルモでシチリア王ルッジェーロ2世に歓迎され、トゥスクルムで教皇エウゲニウス3世との面会を経て11月11日にフランスに帰国した。
第2回十字軍は失敗だったが、進展した出来事もある。1つ目はテンプル騎士団に関することで、十字軍出発前にテンプル騎士団へパリ郊外の土地を寄進、タンプル塔などが建てられたこの地を中心にテンプル騎士団はフランス管区を拡張、ルイ7世に同行してカドムス山の戦いで奮戦する働きを見せ、東方における重要戦力として注目された。
テンプル騎士団の拠点はアラゴンにもあり、たくさんの騎士団員が暮らしていたモンソン城で、ペドロ2世の子ハイメ1世が子供のころ育てられました。テンプル騎士団の拠点で育てられたことで、ハイメ1世は文武両道で優れた王となりアラゴンの領土を広げて征服王と呼ばれました。
2つ目はフランスの内政で、1145年から1147年にかけて国王会議(クリア・レギス)を開催、十字軍で不在の間王国の平和を確保するため大諸侯の支援と忠誠を取り付けた。以後もルイ7世は重要問題で国王会議を開き、1152年のアリエノールとの離婚協議、1155年の王国全土に適用する10年間の平和決議、1178年に息子フィリップ(後のフィリップ2世)の戴冠式挙行などを決めた。国王会議はフィリップ2世の代に発展して財政・司法が分離され、王権拡大に伴い地方組織と共に拡大していった。