フス戦争(1)

文字数 1,375文字

ヤン・フスとヤン・ジシュカについて書いたので、フス戦争についても話題にします。作品集には下の画像から入ってください。
フス戦争以前のフス派の戦いとしては、1410年に行われたポーランド王国、リトアニア大公国連合軍とドイツ騎士団との戦いがあり、ボヘミアから来たフス派義勇兵がヴワディスワフ2世率いるポーランド軍の援護についた。このときのチェコ人義勇兵にはヤン・ジシュカもいる。
どうしてヤン・ジシュカを含むチェコ人でフス派の義勇兵がポーランド軍を援護したのでしょうか?
ポーランド、リトアニアに関しては複雑なので、別に詳しく調べてみようと思います。
1419年、第一次プラハ窓外投擲事件を契機としてフス戦争が始まった。ハンドキャノンや火砲の伝来により、フス戦争はヨーロッパ史最初の火器を使った戦いといわれる。
この頃から余の時代とは全く違う武器を使う戦いが始まっているのか。
1420年代初頭にヤン・ジシュカの生み出した、弩・手銃・砲を装甲馬車とともに活用する戦術によって、当時の騎士による突撃戦術を完璧なまでに打ち破った。
ヨーロッパ諸国を敵に回したフス派は貴族や庶民が団結し、当時の国王の私兵である軍隊ではなく国民軍の原型のような軍隊を作り上げた。
フス派の軍隊は最新の武器を持ち庶民も参加した新しい軍隊だったわけですね。
ローマ教皇と神聖ローマ皇帝ジギスムントは何度も「フス派に対する十字軍」を組織したが、ことごとく打ち破られた。この十字軍では、対陣中にフス派が聖歌を歌い出すとフス派軍の突撃を恐れた十字軍がたちまち壊走した、という逸話が伝えられている。1427年のタチョフの戦いから後、4年間は十字軍が組織されなかった。
それだけフス派は恐れられていたということですね。
1431年に行われた対フス派十字軍では、ポーランド王国から6000人のフス派義勇兵がやってきてボヘミアのフス派を支援した。
フス派はボヘミアだけでなくポーランドにもかなりいたのですか?
義勇兵の数だけでもかなりの人数でお互いに協力して戦っていたようです。
1431年ー1435年に行われた「ポーランド王国とドイツ騎士団の戦争」では、フス派を中心にボヘミアから7,000人の義勇兵がやってきてポーランド王国に味方をした。
この時も随分たくさんの人が義勇兵として戦争に参加していますね。
1433年の北部ポーランドでの戦いにおける勝利に際しては、ボヘミア兵とポーランド兵はともに喜び、ヴィスワ川の河口近くで盛大な祝宴を催し、一同大いに気勢を挙げたという。19世紀プロイセン王国の歴史家ハインリヒ・フォン・トライチュケはこのときのことを「(フス派は)神の軍についての野蛮なチェコ人の歌を歌いながら(バルト)海に挨拶し、海水を瓶に入れ、バルト海が再びスラブのものになった記念とした」と描写し、ドイツ民族に対抗した西スラブ民族(ポーランド人とチェコ人)のこの時代の連帯を認めたのである。
フスを信奉するというだけでなく同じ西スラブ民族ということもあって、ボヘミアとポーランドのフス派は協力して戦っていたのですね。
フス戦争は最初ヤン・ジシュカの巧みな戦術や新兵器、さらにポーランドのフス派と協力したこともあってフス派の圧勝という状況はヤン・ジシュカの死後も続きました。けれどもやがてフス派の内部分裂が原因で収束します。
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登場人物紹介

ラミロ2世。アラゴンの王様だったがいろいろあって今は亡霊となっている

ペトロニーラ。アラゴン女王の名前を使っているがただの主婦。小説家になりたいと思っている。

フェリペ、16世紀のスペインの修道院で暮らすユダヤ人の少年。父親に捨てられて心を閉ざしていたが、ニコラス医師の指導で本来の明るさを取り戻す。まじめで勉強熱心。

ニコラス医師。修道院内の病院の医師で、孤児たちに勉強も教える。心を閉ざしていたフェリペを気にかけ、特別にラテン語や歴史、医学の基礎なども教える。

フアン1世。不真面目王と呼ばれ業績を残さずに死んだが、娘のヨランド・ダラゴンが勝利王シャルル7世を支えている。

ハインリヒ7世。皇帝フリードリヒ2世の長男でアラゴンの血も引いている。父と対立して反乱を起こし降伏して目を潰され。幽閉されて悲劇的な人生の幕を閉じる。

ペドロ2世。ラミロ2世のひ孫でレコンキスタの英雄。戦闘能力はかなり高く、ファンタジー映画やゲームの中では主要キャラになるタイプだが、なぜか小説の中で影が薄い。

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