バルドゥイン・フォン・ルクセンブルク

文字数 1,398文字

神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世の弟でトリーアの大司教となったバルドゥイン・フォン・ルクセンブルクについて紹介します。作品集は下の画像から入ってください。
トリーアにあるバルドゥイン像です。
バルドゥイン・フォン・ルクセンブルク(1285年頃ー1354年)は、神聖ローマ帝国の選帝侯(トリーア選帝侯)であるトリーア大司教(1307年ー1354年)。ルクセンブルク家の出身で、父はルクセンブルク伯ハインリヒ6世。
兄であるハインリヒ7世およびその孫カール4世の神聖ローマ皇帝選出に貢献した。
兄のハインリヒ7世だけでなく、孫のカール4世の時にも皇帝選出で貢献しているのですね。
1288年6月5日のヴォリンゲンの戦いにおいて父が戦死した後、母が未成年の息子たちの摂政となった。
ハインリヒ6世には3人の息子がいましたが、彼が戦死した時、長男のハインリヒは10歳、次男ヴァルラム8歳、三男バルドゥイン3歳位でした。次男のヴァルラムは1311年にブレシア包囲戦で戦死しています。
ハインリヒ、バルドゥイン兄弟は一時期フランス宮廷で養育され、パリ大学において学んだ。
カール4世もフランス宮廷で育ち、その時の家庭教師が後に教皇となりました。フランス宮廷で育ち、学問を身に付けたことが、ハインリヒ7世とバルドゥイン兄弟の人生を大きく変えました。やっぱりフランスは素晴らしい国です。
1307年12月7日トリーア大司教に選ばれ、1308年3月11日教皇クレメンス5世によって叙任された。
クレメンス5世は教皇庁をアヴィニョンに移転し、またフィリップ4世の要請を受け、テンプル騎士団を異端と宣言し、解散させた教皇でもあります。クレメンス5世については別に詳しく話題にします。
クレメンス5世についてはいろいろありそうですが、バルドゥインは22,3歳でトリーア大司教に選ばれ、教皇から叙任されている、かなりの出世ですよね。
フランスのパリ大学で学んでいるから出世も早いのです。
兄の息子ヨハンとボヘミア王家の娘との結婚を仲介した。
余がボヘミア王になれたのは、トリーア大司教バルドゥイン・フォン・ルクセンブルクのおかげでもあるのか。
両者の息子が金印勅書等で有名なカール4世である。1310年に始まる兄のローマ遠征に同行した。
ハインリヒ7世は弟のバルドゥインがトリーアの大司教になっていて、教皇との関係が良好だったことがよかったのです。フリードリヒ2世の子、ハインリヒ7世は皇帝の子でありながら、皇帝と教皇の争いの中で教皇にそそのかされて反乱を起こし、不幸な生涯を閉じました。ヴェンツェルは聖職者との争いで統治を失敗しました。皇帝や王は教皇や聖職者の支持を得られるかどうかでかなり変わり、ルクセンブルク家のハインリヒ7世やカール4世はとても恵まれていたと思います。
1340年頃、兄ハインリヒ7世との事績を73個の絵で示すBilderchronik(仮訳、年代記絵図)を作成している。これは当時のbilderchronikとして極めて重要なもので、現在コブレンツの文書館に所蔵されている。
ダンテなどのイタリアの知識人が絶賛しただけでなく、弟のバルドゥインも年代記絵図を作成させて記録を残しているので、ハインリヒ7世の業績は後の世代にも広く伝わりました。
ハインリヒ7世とバルドゥインは理想的な兄弟です。フランスでは兄弟の争いが内乱にまで繋がりました。
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登場人物紹介

ラミロ2世。アラゴンの王様だったがいろいろあって今は亡霊となっている

ペトロニーラ。アラゴン女王の名前を使っているがただの主婦。小説家になりたいと思っている。

フェリペ、16世紀のスペインの修道院で暮らすユダヤ人の少年。父親に捨てられて心を閉ざしていたが、ニコラス医師の指導で本来の明るさを取り戻す。まじめで勉強熱心。

ニコラス医師。修道院内の病院の医師で、孤児たちに勉強も教える。心を閉ざしていたフェリペを気にかけ、特別にラテン語や歴史、医学の基礎なども教える。

フアン1世。不真面目王と呼ばれ業績を残さずに死んだが、娘のヨランド・ダラゴンが勝利王シャルル7世を支えている。

ハインリヒ7世。皇帝フリードリヒ2世の長男でアラゴンの血も引いている。父と対立して反乱を起こし降伏して目を潰され。幽閉されて悲劇的な人生の幕を閉じる。

ペドロ2世。ラミロ2世のひ孫でレコンキスタの英雄。戦闘能力はかなり高く、ファンタジー映画やゲームの中では主要キャラになるタイプだが、なぜか小説の中で影が薄い。

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