イングランド王スティーブン(4)

文字数 1,181文字

イングランド王スティーブンについての続きです。作品集は下の画像から入って下さい。
厭戦気分が漂い始めた1153年に転機が訪れ、1月にマティルダの息子アンジュー伯アンリ(後にイングランド王ヘンリー2世)がイングランドに上陸、西部を平定してロンドンへ迫った。対するスティーブンは1152年に王妃を、1153年8月に長男のブローニュ伯ウスタシュ4世(英名ユースタス)を失い意気消沈、マティルダ派との話し合いに応じた。ウィンチェスター司教ヘンリーとカンタベリー大司教シオボルド・オブ・ベックの仲裁で11月6日にアンリとの間に和平協定(ウォーリングフォード協定、ウィンチェスター協定とも)を結び、自身の終身王位の承認と引き換えにアンリを後継者に迎え、王位継承者とすることで両者は和解した。スティーブンの息子にはウスタシュの弟の次男ギヨーム(ウィリアム)もいたが、ギヨームは王位継承権放棄の代償として、父親、本人そして妻の権利によって所有するイングランドの所有全てを保全する約束をを取りつけた。
最後まで徹底的に戦うのではなく、妥協して和解したのか、つまらん。
この状態で徹底的に戦えば国は荒れて多くの犠牲が出たかもしれません。そうなる前に和平協定を結んで自身の王位や息子ギヨームの立場を守ったスティーブンは賢いと思います。
和睦後は双方の傭兵解散、地方貴族が勝手に築いた城(違法城砦)の破壊、一部貴族の反乱討伐などに奔走したが、1154年10月25日にドーバーで死去。協定の通りアンリがヘンリー2世としてイングランド王位を継承し、プランタジネット朝が成立した。遺体は自身が建立に携わり、妻と長男が眠るケントのフェヴァーシャム修道院に埋葬された。
徹底的に争うことをしなかったからこそ、死後も王としての尊厳が守られきちんと埋葬されたのですね。ペドロ2世は教皇と対立して破門され、死後教会の決められた場所に埋葬されることが許されませんでした。私はアラゴンの財政を傾けてしまい、王にふさわしい立派な棺を作ってもらうことができませんでした。王の尊厳が奪われ、きちんと埋葬してもらえないと天国に行くことができずに亡霊になってしまいます。
ブローニュ伯はギヨームが継いだが、彼が1159年に亡くなると娘のマリーが相続、フランドル伯ティエリー・ダルザスの長男マチューと結婚するが、1170年に離婚、ブローニュはマチューに奪われる形となった。所領は失ったが、孫娘マティルドがブラバント公アンリ1世に嫁ぎ、その子孫はホラント伯、エノー伯となった。イングランド王エドワード3世の王妃フィリッパ・オブ・エノーはエノー伯家の出身である。
スティーブンはアンリと和解したことで彼の子が王位を継承することはありませんでしたが、子孫は歴史に関わってきます。次回からスティーブンと争ったマティルダについて調べてみます。
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登場人物紹介

ラミロ2世。アラゴンの王様だったがいろいろあって今は亡霊となっている

ペトロニーラ。アラゴン女王の名前を使っているがただの主婦。小説家になりたいと思っている。

フェリペ、16世紀のスペインの修道院で暮らすユダヤ人の少年。父親に捨てられて心を閉ざしていたが、ニコラス医師の指導で本来の明るさを取り戻す。まじめで勉強熱心。

ニコラス医師。修道院内の病院の医師で、孤児たちに勉強も教える。心を閉ざしていたフェリペを気にかけ、特別にラテン語や歴史、医学の基礎なども教える。

フアン1世。不真面目王と呼ばれ業績を残さずに死んだが、娘のヨランド・ダラゴンが勝利王シャルル7世を支えている。

ハインリヒ7世。皇帝フリードリヒ2世の長男でアラゴンの血も引いている。父と対立して反乱を起こし降伏して目を潰され。幽閉されて悲劇的な人生の幕を閉じる。

ペドロ2世。ラミロ2世のひ孫でレコンキスタの英雄。戦闘能力はかなり高く、ファンタジー映画やゲームの中では主要キャラになるタイプだが、なぜか小説の中で影が薄い。

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