ジョルダーノ・ブルーノ(3)
文字数 885文字
1583年、ブルーノはアンリ3世の推薦書を持ってイギリスに赴き、オックスフォード大学での教授職を得ようとしたが、同地では受け入れられず、イギリスで教壇に立つという望みは果たされなかった。だがロンドンに滞在する2年半のあいだに、ブルーノ前半期の主著とされる6つの対話篇『聖灰日の晩餐』『原因・原理・一者について』『無限・宇宙・諸世界について』『傲れる野獣の追放』『天馬のカバラ』『英雄的狂気』を上梓した。
エリザベス1世の在位は1558年から1603年までなので、ブルーノがイギリスに行った時はエリザベス朝と呼ばれイングランドの黄金期と言われた時期でした。その前はメアリー1世(在位、1553年ー1558年)の治世でプロテスタントに対する過酷な迫害が行われました。
ジョルダーノ・ブルーノは本人が意識していなくても、宗教の争いや激しい迫害のあった場所にばかり行っていますね。そうした場所を渡り歩く中で、キリスト教とは別の価値観を求めてエジプトやギリシャについて調べたり、宇宙の仕組みを考えたりして本を書いたのでしょうか?
1585年、パリに戻ったが、アリストテレスの自然哲学を批判した批判した120のテーゼが問題とされた上、数学者ファブリツィオ・モルデンテとの裁判に巻き込まれ、ドイツへと去った。ドイツではマールブルク大学での教授職は得られなかったが、ヴィッテンベルク大学での教授許可を得ることができ、アリストテレスについて2年間講義した。1588年にヴィッテンベルクを去り、今度はボヘミアのプラハに現れた。そこでルドルフ2世に300テーラーという年俸を保証されたが、教授職は得られなかった。どうしても教壇に立ちたいブルーノはヘルムシュタットに移ったが、ルター派の権威者たちの反感を買い、ここも立ち去ることになった。