ウィリアム2世(5)
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他のイングランド人聖職者は、ウィリアム王に対してこれまでの自分たちの立場の昇進や生活において恩義を感じていたため、アンセルムスを公然と擁護することができなかった。1095年、ウィリアム王はロッキングハムで議会を開催し、アンセルムスを王権のもとに従属させようと試みた。しかしアンセルムスは最後まで自身の立場を崩さず王と対立し続けた。1097年10月、ついにアンセルムスは亡命し、教皇の支援を得るためローマへ向かった。
当時のローマ教皇ウルバヌス2世は外交的に優れた教皇であり、ちょうどこの頃、対立教皇クレメンス3世を支援する神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世と叙任権をめぐり争っていた。そんなウルバヌス2世は新たな敵を作るのを躊躇い、ウィリアム王とコンコルダートを締結したとされる。この協約をもとに、ウィリアム王はウルバヌス2世を正式な教皇であると認め、またウルバヌス自身もウィリアム王のイングランド王国における教会政策を承認したのだった。その後もウィリアム王はアンセルムス不在の中、彼の治世中カンタベリー大司教座からの歳入を国庫に歳入し続けたという。
この紛争はウィリアム王による失政とは見做されておらず、その後しばしば発生する国王と教会との対立事件の兆候のひとつみなされている(主な対立事件としてヘンリー2世の治世におけるトマス・ベケット暗殺事件や、ヘンリー8世の治世におけるイングランド国教会設立などが挙げられる)
もちろん、聖職者たちは自らこのような政治的問題に介入することはなかった。文献によると、先のランフランクス大司教がウィリアム征服王に対して、彼に対する反乱に参加したオド司教を処罰するよう提案した際、ウィリアム征服王は『なんだと?彼は聖職者だぞ!』と声を荒げ、それに対しランフランクスは『殿下はオド司教を処罰するのではありません。ケント伯を処罰するのです』と返答したと伝わっている(オドはバイユー司教のみならず、ケント伯の爵位も有していた)
上述の政策によりウィリアム王は当代の人々から不平不満を論われているものの、彼はバーモンドジー修道院の、創設にして荘園を寄進すらしているという記録も残っていることから、このような記録はウィリアム王の個人的信条を示す証拠として妥当な物であるとみなされている。