マリー・ド・ブルゴーニュ(1)
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マリー・ド・ブルゴーニュ(1457年ー1482年)は、ヴァロワ=ブルゴーニュ家のブルゴーニュ公国最後の君主、(名目上の)ブルゴーニュ女公(1477年ー1482年)後の神聖ローマ皇帝であるハプスブルク家のマクシミリアン1世の妻。領民たちからは「美しき姫君」「我らのお姫さま」と慕われていたという。
シャルル突進公と、その2番目の妻であるブルボン公シャルル1世の娘イザベル・ド・ブルボンの間に生まれる。シャルル唯一の子であり、ヨーロッパ随一の経済力と成熟した文化を誇っていたブルゴーニュ公国の唯一の後継者として恵まれた少女時代を送った。生母とは早くに死別したが、義母マーガレット・オブ・ヨークとの仲は極めて良好で、愛情を込めて養育された。
フランスの侵攻によってブルゴーニュ公爵領とブルゴーニュ伯領を失い、またネーデルラント・フランドルでも同時に貴族がこの機会に権利の拡大を画策し始め、フランス王ルイ11世と組んだ貴族や大商人たちが、都市の自治の承認とフランス王太子シャルル(後のシャルル8世)との結婚をマリーに迫った。マリーはこれを拒否して孤立し、幽閉同然の暮らしに追いやられた。
1477年2月、大特許状という文書に署名させられ、ブルゴーニュ領ネーデルラントに大幅な特権を与えた。義母マルグリットの助言を得たマリーは、父の定めた婚約者マクシミリアンに結婚(=救援)を要請し、こうして1477年8月19日、ガンの聖バボ教会で挙式した。