神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(13)
文字数 1,003文字
1235年7月のヴォルムスの集会ではハインリヒの廃位とともに、フリードリヒとイングランド王女イザベラとの結婚が執り行われた。集会の後にフリードリヒはマインツに向かい、13世紀で最大規模の集会を開催する。この集会ではホーエンシュタウフェン家とヴェルフェン家の和解、ラント平和令の発布、1236年春のロンバルディア同盟への遠征が決定された。
フリードリヒの3度目の皇后となったイザベラはイングランド王ジョンの娘でヘンリー3世の妹です。皇后にはなりましたが管理が厳しくて外の世界とは隔離され、娘のマルガレーテ以外の子供は育たず、出産後に亡くなり、幸せとは言い難い人生だったようです。
ハインリヒの反乱が鎮圧されるとロンバルディア同盟の都市は蜂起し、フリードリヒの軍はイタリアに攻め込んだ。1237年11月27日のコルテノーヴァで、フリードリヒはロンバルディア同盟軍に勝利する。しかし、戦後の講和は難航し、同盟の中心都市であるミラノを屈服させることはできなかった。フリードリヒは講和を拒んだブレシアの包囲に失敗し、またヴェネツィアとジェノヴァが教皇側に加わる。
1237年2月のウィーンの集会で、フリードリヒは次子のコンラートをローマ王に就けた。
1239年にグレゴリウス9世はフリードリヒが庶子エンツォに与えたサルディーニャ王位を剥奪し、一度は取り消した破門を再び行った。皇帝と教皇の争いはイタリアの都市間の抗争、都市内部の派閥にも波及し、皇帝派と教皇派(ギベリンとゲルフ)に分かれて争った。教皇派はフリードリヒをアンチキリストと呼び、フリードリヒは福音にかなった清貧を説いて教皇派に対抗した。