神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(5)
文字数 830文字
1209年に成年を迎えたフリードリヒは10歳年上のアラゴン王国の王女コスタンツァと婚約し、シチリア王位を望む意思を表明した。コスタンツァは女官、吟遊詩人、騎士団とともにパレルモに入城し、フリードリヒは彼女からプロヴァンス詩と洗練された宮廷生活を教わった。
フリードリヒと最初に結婚したコスタンツァはアラゴン王ペドロ2世の妹でラミロ2世の曾孫になります。
コスタンツァはハンガリー王イムレと結婚して後継ぎとなる子が生まれながらも王の死後義理の弟に王位を奪われてオーストリアに亡命してそこで息子が亡くなり、アラゴンに帰国しました。
コスタンツァは余の妹である。妹は夫と息子を失ってひどく悲しみ、修道院に入りたいと言っていたが、余がフリードリヒとの婚約をまとめて妹をアラゴンから送り出した。余が王であった時、アラゴンはフランス風の洗練された文化を持つ大国だったのだ。
アラゴン王のラミロ2世、ペドロ2世、フアン1世はみなフランス人と結婚してフランスへの憧れが強いです。そしてシチリア王となるフリードリヒと婚姻関係を結ぶことでシチリアへも進出しようとしたのです。けれどもその後ペドロ2世が戦死したことでアラゴンは不安定になり、そのことがハインリヒ7世の生涯を大きく変えたようにも思います。教皇インノケンティウス3世はレコンキスタでキリスト教国の団結を呼びかけながら、その後南フランスの争いに関わったペドロ2世をカタリ派に味方したとして破門しています。教皇の考え方がアラゴンの歴史も大きく変えているのです。
1209年にフリードリヒが成年に達したため、インノケンティウス3世は後見人の地位から降りなければならなかったが、フリードリヒがローマ王位を継ぐことを恐れたインノケンティウス3世はオットーの戴冠式を強行し、オットーが帝位に就いた。