第2話

文字数 2,516文字

 不動明王を降ろした「その後」は、信じがたいものだった。想像の遥か上を越えていたせいで、理解するのに――いや、理解はできていた。だが受け入れたくなくて、混乱した頭で必死に粗探しをしたせいで時間がかかったのだ。
「――以上です」
 ベコッと、ペットボトルが音を立ててへこんだ。室内に、重苦しい沈黙が落ちる。部屋の前を子供の甲高い声が通り過ぎた。
「……おかしいだろ」
 やがて静寂が戻った頃、晴が俯いたまま低く呟いた。微かに、声が震えているのが分かる。
「玄武を召喚できるほどの霊力が、あいつのどこに残ってた? 不自然だ」
「僕たちもそう思いました。ですが、確かに玄武は召喚されていました。方法はまだ聞いていません」
 はっ、と息を吐き出すような嘲笑が漏れた。
「お前ら、二人揃って夢でも見てたんじゃねぇのか」
 こんなの、ただの言いがかりだ。二人が揃って目撃している以上、疑う余地などない。だが、ここで認めてしまえば宗一郎と不動明王の間で交わされた契約を認めることになる。
「では、おじさんに直接確認しますか?」
 陽がサイドチェアに置いてあった晴の携帯を手に取った。視界の端に映った自分の携帯から、陽の腕に沿って視線を上げる。こちらを見つめる陽の眼差しは驚くほど真剣で、報告が嘘でも作り話でもないことを物語っていた。
 晴はぐっと奥歯を噛み締めて、視線を逸らした。
 巨大結界を発動させようとしていた明に、玄武を召喚するほどの霊力は残っていなかった。それは間違いない。けれど、あの二人のことだ。何かしら――例えば、不動明王との契約を一時的に変更させたように、事前に十二神将に対しても同じことをしていた可能性は十分ある。その証拠に、事件が起こってからこっち、明はやけに祈祷部屋にこもることが多かった。あれが十二神将を召喚するためだと考えれば、全てが腑に落ちる。だとしたら、宗一郎が玄武に乗って伊吹山へ来たことも、交渉が行われたことも――事実。
「――っ」
 晴は唇を噛み締め、震える片手で顔を覆った。
 こんな結末、想像もしなかった。
 あの時神降ろしの呪を行使しなければ、陽は間違いなく満流に殺されていた。どうしても陽だけは助けたかった。それにあの傷ではどのみち死んでいた。ならばと思ったから呪を行使したのに。自分のために、陽のために、明のために。それなのに、志季が止めてくれなければ陽が身代わりになっていた。そして結局、宗一郎に代償を支払わせることになってしまった。
 自分たち兄弟にとって、宗一郎は二人目の父であり、師匠であり、特に明にとっては当主としての先達者でもあった。寮の者たちにとっては辛い日々から救ってくれた恩人で、陰陽師としての先導者だった。そして、宗史と桜にとってはたった一人の父親で、夏美にとっては愛した夫で、律子にとってはただ一人の息子だ。そんな彼を、奪うことになってしまうなんて。
 ――あいつらに、どう詫びればいい。
 罪悪感と恐怖で、頭がどうにかなりそうだ。
 晴がどんな反応をするのか分かっていたとはいえ、さすがに見かねたか。悲壮感を纏い、大きな体を丸めて強張らせ、微かに背中を震わせる晴を見つめていた陽が、携帯をチェストに戻しておもむろに腰を上げた。静かに晴のベッドの側へ歩み寄り、ゆらりと片腕を持ち上げる。ちょっと待てと、止める暇もなかった。志季がぎょっと目を丸くして立ち上がった直後、陽が手刀を晴の頭目がけて素早く振り下ろした。
「だっ」
 ゴンっと鈍い音と晴の間抜けな悲鳴が、重苦しい空気を破った。
「な……っ」
 勢いよく陽を見上げた晴の顔が、驚きから一転、恐怖で引き攣った。どこぞの誰かさんを彷彿とさせる冷ややかな眼差しには、怒りと苛立ちが滲んでいる。
 何とも言えない空気が流れ、陽が腕を引っ込めた。
「どうせ」
 ふてくされたような、苛立ちを押し殺したような声。
「どうせ、全部自分のせいだとか思ってるんでしょう。全ての責任を一人で背負って、おじさんたちに頭を下げるつもりなんでしょう。晴兄さんといい明兄さんといい、どうして貴方たちはそうやって何でもかんでも一人で抱え込もうとするんです。自分を責めて追い込んで――ああ、もしかしてドMなんですか? だったら何も言いません、出しゃばりました謝ります」
 陽がここまで嫌味たっぷりに言うなんて。これは相当お怒りだ。危機察知能力だろうか。飛び火しないようにと、志季が顔を引き攣らせてそろそろと身を引いた。一方晴は、陽の気迫に押されたのか、それとも何を言われているのか処理し切れないのか、固まったまま動かない。
 そんな晴に構わず、陽は続ける。
「こうなったのは自分のせいだと言うのなら、僕だって同じです。朱雀がいたにもかかわらずあの体たらくですよ? 情けなさ過ぎて泣けてきます」
「やめろ……」
 陽を見据えたまま、晴がうわごとのようにぽつりと呟いた。
「僕がもっと強ければ、悪鬼をさっさと片付けて兄さんの援護に入れた。そうすれば兄さんが大怪我をすることもなかったし、呪を行使することもなかった」
「違う……」
「つまりこの結果の責任は、あの場にいた僕たち全員にあります」
「違うっつってんだろッ!」
 食い気味の怒声と大きくへこんだペットボトルの乾いた音が、室内に響く。
「お前らのせいじゃねぇ。俺が……っ」
 弱いから。そのひと言が出ない。これは兄として、主としてのプライドだろうか。この期に及んで往生際の悪い。言葉を詰まらせて、晴はバツが悪そうに視線を逸らした。
 氏子らのくだらない憶測。習わしとは逆に付けられた名前。明以上の霊力量。氏子らのカビの生えた古臭い考えから明を守らなければと思いつつ、明を、栄晴を信じ切れなかった。割り切るきっかけは、あったのに。
 自分の弱さや臆病さがこの結果を招いたのだ。明と栄晴を信じ、あんなくだらないことに囚われずにきちんと訓練を積んでいれば、とっくの昔に覚醒していたかもしれない。例え勝てずとも、巨大結界が発動するまで持ち堪えられたかもしれない。そうすれば、宗一郎を身代わりにさせることも、陽と志季に辛い決断を強いることもなかった。
 何が兄だ。何が主だ。自分に、そんな資格はない。
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