第9話

文字数 5,736文字

「俺も連れて行け!!」
 そう叫ぶと、冬馬は足を止めることなく猛スピードで走り去るワンボックスカーを睨みつけた。あっという間に米粒ほどに小さくなり、アスファルトを擦る甲高い音を響かせながら右折する。
「ったく、しょうがねぇな」
 志季は一つぼやき、しかし口元には不敵な笑みが浮かんでいる。
「冬馬、そこで待ってろ」
 少しだけ張った声でそう言われ、冬馬は徐々に速度を落とす。全力で走るなんて何年ぶりだろう。冬馬は息を切らしながら足を止め、屋根伝いにワンボックスカーが走り去った方へ消える志季を見送った。
 体力はある方だと思っていたが、走り込んだ方がいいかもしれない。頭の隅で考えていると、志季はすぐに戻ってきた。長く息を吐き出して息を整える冬馬の目の前にすとんと着地し、真剣な眼差しで見据えた。
「覚悟はできてんだろうな?」
 おそらく、彼らの事件に巻き込まれる可能性があるのだろう。このまま追わずに警察に任せる選択もある。だが、それでは腹の虫がおさまらない。何の前置きもない問いかけに、冬馬は迷うことなく強く頷いた。
 すると志季は、腰に両手を当ててにっと笑みを浮かべた。
「よっしゃ、男はそうでないとな」
「は?」
 意味不明の言葉を吐くや否や、志季は冬馬の隣に移動し、ひょいと抱えた。俵担ぎではなく、今度はお姫様抱っこだ。ちょっと待て、と苦言を呈するより先に、ふわりと体が浮く感覚に襲われた。民家の壁、庭木、屋根が一瞬で下へ流れる。一旦屋根の上に着地し、しかしすぐにまた浮いた。今度は足元を民家の屋根が後ろへ流れ、景色が緩やかに上下する。
 まさか自分がお姫様抱っこをされるとは思わなかった。なんで俵担ぎにしなかったのだろうとは思うが、文句を言える立場ではないのでこのまま黙っておこう。それに、衝撃的すぎて頭が冷えた。
「えーと……お、いたいた」
 一人ごちた志季の声に我に返った冬馬は、視線を辿って目を凝らした。ずっと先の方に、移動する赤い点のような物がかろうじて見える。何だ。
 一気に数軒分の屋根を飛び越えられるこちらの方が早いらしい、一度大きく跳ねただけで、赤い点に一気に近付いた。
「……鳥……?」
 間違いない、鳥だ。雀ほどの大きさで、炎を纏ったように全身真っ赤な鳥。水龍と似たようなものだろうか。時折羽をはばたかせ、一定の速度で飛んでいる。おそらく車を追わせているのだろうが、これまた不思議な光景だ。
「よっしゃ、追い付いた」
 満足そうに笑い、導くように前を飛ぶ赤い鳥に続く。
「……あれ、志季が作ったのか?」
 冬馬は赤い鳥を見据えたまま尋ねた。
「まあな。細かいこと苦手だから、あんまやんねぇけど」
 確か、廃ホテルでは火の玉を扱っていた。火の神らしい。
「やっぱり、火の象徴は鳥なのか?」
「んー、つーか、俺ら神道の神なんだけどさ、水神は昔から蛇だの龍だのあるけど、火神にそういうのないんだよ。陰陽道のイメージだけ拝借してんだ」
「ああ、南の朱雀か」
 そのわりには雀にそっくりなのだが、突っ込まない方がいいか。
「お、話が早ぇなぁ」
「四神くらいは。ところで、さっきは悪鬼がいたのか?」
 話題を変えると、志季は顔を曇らせた。責めているように聞こえたか。
「悪い、責めてるわけじゃないんだ」
「ん、ああいや」
 志季は短く息をついた。
「見回った時は、どこにも悪鬼の気配を感じなかったんだよ。龍之介がこっちの件と関わってるかもってのは聞いてんだよな」
「ああ、下平さんから」
「俺らも警戒してたんだけど……、悪かった」
 少し気落ちした表情に、冬馬はいやと否定した。
「智也のことは椿さんがいるから心配してない。それに、志季たちがあのカップルを警戒していなかったら、もっと反応が遅れてた。助かったよ、ありがとう」
 火の鳥を見据えたまま礼を告げた冬馬を、志季がちらりと横目で盗み見した。
「それもなぁ、正直に言うと判断できなかったからなんだよな」
 冬馬はわずかに首を回して志季を見やる。
「どういう意味だ?」
「悪鬼ってのは、俗に言う悪霊だ。けど俺らが言う悪鬼は、人の負の感情も指す。殺意とか嫉妬とか、そういう感情が膨れ上がると邪気になって滲み出て、そのあとに本体から剥がれて個体として行動する。黒い靄とか煙みたいにな。あのカップルは、邪気としてそれが見えた。邪気は分かるか?」
「字面から何となく」
 よし、と言って志季は続けた。
「そもそも、負の感情は誰でも持ってるから、その辺にいる奴からも見えるんだよ。それにあいつら、声量押さえて喧嘩してたろ。警察に通報されるのを避けるためってのもあったんだろうけど、感情を殺せば内に溜まりやすい。あの邪気の濃さだったら、喧嘩してなかったら絶対捕まえてた。しかも演技に見えなかったんだよなぁ」
 確かに、志季が言うように演技には見えなかった。もしかすると、実際に付き合っていて喧嘩も本当だったのかもしれない。冬馬は逡巡し、眉根を寄せた。
「つまり、喧嘩をすることで俺たちに対する悪意をごまかしてたってことか」
 なるほど、と呟いた冬馬に、志季が驚いた顔で瞬きをした。
「察しがいいな、お前。誰かさんと違って一から説明しなくていいから楽だわ」
 ははっと笑った志季に、冬馬は首を傾げる。誰のことを言っているのか気になるが、それ以上に。
「だとしたら、あいつらは初めからその情報を持ってたことになる。しかも、志季たちが護衛につく可能性も考えていた」
「そういうこと。別に隠してるわけじゃねぇけど、相手による。護衛に関しては、お前らの関係性を考えれば予想できるだろ。ただ、それを龍之介が考えたかどうかは微妙なところだ」
「他の奴が計画したってことか?」
 んー、と志季は難しい顔で煮え切らない返事をした。悪鬼を使ってきたのなら、龍之介は確実に関与している。平良、あるいは他の仲間が計画した可能性を考えているのだろう。
「あ、それとな冬馬」
「うん?」
「椿がいるっつーのもそうだけど、智也の怪我、多分大したことねぇと思うぞ」
 刺されたことに変わりはねぇけど、と付け加えた志季に、冬馬は思考を巡らせながら何度か瞬きをした。刺された場面を見ていたにしろ、傷がどのくらいなのかまでは――。
「そうか。護符」
「御名答。あいつら動きがちょっと鈍かっただろ。邪気が護符に反応したんだよ。悪鬼だと護符より弱けりゃ近付けなかったりするけど、邪気の場合は人の意志が絡むとどうしてもな。廃ホテルでもそうだったし」
 神も護符も完璧ではないということだ。
「誰か護符を持ってたのか?」
「ああ。大河がな。えーと、高校生くらいの奴」
「ああ、覚えてる。……彼か」
 木刀を手にして激怒した少年だ。彼――大河にとって、冬馬たちは陽を誘拐した犯人の一味で、リンとナナは名前すら知らない他人だった。それなのにあんなふうに怒ることができる彼は、きっととても優しい人なのだろう。
 あの高さから飛び降りた彼といい、大河といい、樹は本当にいい仲間に恵まれたのだ。
 そうか、と小さく呟いた冬馬を一瞥した志季が、どこか不満そうに目を細めた。と、真っ直ぐ進んでいた火の鳥が方向を変えた。それに続いた志季が遠くへ視線を投げ、舌打ちをかます。
「やっぱりか。あの野郎、ほんとクズだな。冬馬、ちょっと飛ばすぞ」
 渋面で悪態をつくや否や、志季は膝を深く折って大きく飛び跳ね、火の鳥を追い越した。びゅっと耳元で風が低く唸る。
「何だ?」
 尋ねると、志季は鋭く目を細めた。
「あいつら、賀茂家に行くつもりだ」
 美しい紫暗色の瞳には、不愉快な色が滲んでいた。

        *・・・*・・・*

 マンションの屋上に、月光に照らされる二つの人影があった。一人は足を投げ出して腰を下ろし、一人は微かに吹くぬるい風を受けて立っている。
「てっきり、結界張ってると思ったのに」
「外で戦うわけにはいかないからでしょ」
「ああ、そっか。大騒ぎになっちゃうもんね。で、どうする?」
 少女は、眼下に広がる広大な敷地を有した屋敷を見下ろしながら、隣に立つ女に問うた。
「確かめるのもいいんじゃない?」
「やっぱり。弥生ちゃんならそう言うと思った」
 少女はやれやれと溜め息をつき、肩を超す漆黒の髪を一つにまとめた。隣から差し出されたヘアゴムを、にっこり笑って受け取る。
「ありがとー」
 頭をひと撫でして髪を縛った。年の頃は高校生くらいだろうか。眉の上で切り揃えた前髪、まるで日焼けをしたことがないような青白い肌にまん丸な目、ぽってりと厚い赤い唇。この真夏に、手の甲まで隠れる指抜きカットソーを着て、ショートパンツにハイカットのスニーカーを履いている。
「あたし、汗かくの嫌いなんだけどなぁ……」
 ぼやきながら両手で撫でるのは、行儀よくお座りをしてぴったり寄り添う、二匹の真っ黒な大型犬だ。目は深紅、体表からはわずかに煙のようなものが立ち昇り、ゆらゆらと揺れている。
 ねぇ、と同意を求めるように犬の顔を覗き込む少女を、女――深町弥生(ふかまちやよい)は横目で見下ろした。じゃあ長袖なんか着なきゃいいでしょ、という言葉を飲み込んで、視線を屋敷へと戻す。
「別に、あんたは来なくてもいいわよ。結界樹で犬神も居心地悪いだろうし」
 突き放すように言うと、少女は唇を尖らせて弥生を見上げた。
「またそういうこと言う。弥生ちゃん一人で行かせるわけないでしょ。結界樹くらい、この子たちは平気。それに、何かあったら里緒(りお)が悲しむもん」
 ねー、とまた犬二匹に同意を求める少女に、弥生は嘆息した。
「……怪我しない程度にするわよ」
 ぽつりと呟くと、少女はきょとんと目をしばたかせて弥生を見上げ、へらっと笑った。
「うん、約束ね」
「はいはい」
 おざなりに返事をし、弥生はもう一度こっそり息をつく。
 交戦してもしなくてもどちらでもいいですよ、と判断を丸投げしてきた彼の指示は、間違っていないと思う。今回は交戦目的ではないのだから。しかし、興味はある。
 賀茂家当主の式神が、どの程度の実力なのか。
 もちろん、神相手に生身の人間が勝てるなどとは思っていないし、実力を引き出せるとも思わない。けれど、土御門陽を誘拐する際に交戦した土御門明の式神は、こちらの式神に勝てなかった。現当主の実力が劣っているのか、それとも、彼の実力が桁違いなのか。また、自分の実力がどこまで通用するのか確かめる、いい機会でもある。
 とはいえ――。
 まだかな、まだかな、と子供のように足をぶらつかせながら待つ少女を一瞥し、弥生は目を細めた。初めて会った時の姿からは想像できないほど、人間らしくなった。
 あの頃の彼女は、まるで獣だったから。
「あ、来たよ」
 少女の声に我に返り、弥生は眼下に視線を投げる。屋敷の門前に、無駄に大きなマフラー音を響かせて、一台の真っ赤なスポーツカーが滑り込んできた。エンジンが止まり、運転席から降りてきたスーツ姿の男に、弥生はこれでもかとしかめ面をし、少女がけらけらと笑った。
「相変わらずダサい恰好してるね。暑くないのかな」
「脳みそ茹で上がってんじゃないの」
「あ、この前言ってたんだけどね、モテる男はスーツが似合うんだって」
「自分はモテないって言ってるようなもんじゃないの、それ」
「あははは、厳しー。でも確かにそうかもー」
 ばっかみたい、と弥生が悪態をついたところで、男がきょろきょろと周囲を見渡した。そして二人に気付くとひらりと手を振り、挙げ句の果てに投げキッスを寄越してきた。
 ひっ、と二人同時に引き攣った悲鳴を上げてのけ反り、犬二匹がマズルに皺を寄せて低く唸った。その拍子に、体表から大量の煙が上がる。
 ぞぞぞ、と足元から虫が這い上がってくるような不快感と同時に、怒りも込み上げてきた。
「殺ってもいい? いいわよね、あんな勘違いクズ野郎」
「気持ちは分かるけど我慢して弥生ちゃん。あと口悪いよ」
 目を据わらせてパーカーのポケットから独鈷杵を取り出した弥生を、少女はどうどうと落ち着かせる。
 本来、土御門家、賀茂家、寮の者たちとは敵対する関係だ。だがあの男、草薙龍之介に関してはおそらく意見が合致する。ならばいっそこちらで処分してしまえばいいのに。そう意見すると、彼は言った。
『殺すのはいつでもできます。しかし、あっさり悪鬼に食わせて調伏するのと、生きたまま社会的に抹殺されるのと、さて、どちらがより酷でしょうねぇ』
 と。
 個人的には調伏してしまえと思うが、龍之介にとって死ぬまで惨めな思いをするのは地獄だろう。つまり処分は容赦なく下されるのだ。さらに、今頃リンとナナという女性を龍之介の仲間が襲っている頃だ。
 土御門陽の誘拐時、良親が人質に取ったのは彼女たち。さらに下平という刑事に、桐生冬馬と金森智也(かなもりともや)橋圭介(はしけいすけ)の四人。彼女たちの送り迎えをしていたくらいだから、龍之介の悪行と悪癖は当然知っている。龍之介が鬼代事件に関わっているかいないか判然としなくても、陽が誘拐された時点で一之介の関与は考えただろう。となると、最悪の事態を想定しないはずがない。下平から成田樹へ相談がもちかけられ、さらに式神が護衛につく可能性が高い。つまり、龍之介が彼らを襲ったことは、必ず伝わる。
 平良が良親から聞いた話だと、成田樹と桐生冬馬はかなり親しい様子だった。彼の逆鱗に触れることは間違いない。要するに、だ。
「今回ばかりは、成田樹に期待するわ」
「あっちからもこっちからも嫌われて、大変だねぇ」
「ああいうのをね、自業自得、身から出た錆っていうのよ」
「自業自得は知ってる。みから……?」
「身から出た錆。似たような意味よ。四文字熟語かことわざかの違い」
「ふーん。ややこしいね。どっちかでいいのに、っと。あれ? なんかトラブル?」
 少女が、門前で携帯片手に慌てふためいている龍之介に小首を傾げた。
「失敗したんでしょ」
「ああ、じゃあ――」
 こちらに向かって必死に手を振る龍之介を見下ろして、よいしょ、と少女が腰を上げた。
「あたしたちに裏切られたって分かった、ようには見えないんだけど」
「アホだから仕方ないわよ。でもまあ」
 少女と弥生の口元にくすりと笑みが浮かび、屋敷の縁側に着物姿の人物が姿を現した。
「すぐに分かるわ」
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