第1話

文字数 9,336文字

 京都の夏は暑い。それは今年も例外ではなかった。
 京都で生まれ育ったとはいえ、年々最高記録を更新する勢いで上がり続ける気温は、三十も半ばを迎えた体には少々過酷だ。
 京都府警本部刑事部・捜査第一課に所属する紺野誠一(こんのせいいち)は、急かされていた報告書の作成のため、眠い目を擦りながら朝七時過ぎに出勤した。すると、すぐさま当直だった先輩から指示が飛んだ。
「右京区の神社で殺しだ。被害者は神社の宮司、四十代男性。住所は――」
 それまでに入っていた簡単な情報を慌ただしくメモし、少し遅れて出勤してきた後輩の北原匠(きたはらたくみ)と共に臨場するべく車を走らせた。
 国道162号線をひたすら北上した山間部に位置するその町は、町を左右に二分するように川が走り、山と畑に囲まれた二千人程の長閑な町である。管轄は右京警察署。紺野が五年前まで勤務していた所轄署だ。
 記憶では、この町で大きな事件は発生していない。ましてや殺人事件などの凶悪犯罪とは無縁の地域だったはずだ。それゆえに記憶に薄い。
 府警本部から車で四十分弱。途中で国道を逸れ、山中へ続く車一台分ほどの細い市道を五分ほど進むと、パトカーや鑑識車両が縦列駐車されていた。道幅が狭いせいで、到着順に奥から詰めて停車しているのだろう。北原は列の一番後ろに車を停めた。
 紺野は助手席から降りると、深く空気を吸い込んだ。森に囲まれているせいか、市内より格段に涼しく空気も澄んでいる。遠くで鳴く鳥の声に、木々の隙間から日差しが差し込む光景は幻想的で、本当にここで殺人事件が起こったのか疑いたくなる。
「やっぱり森の中って涼しいですねぇ」
 北原が、運転席のドアを閉めながら気持ちよさそうに言った。
「森林浴しに来たんじゃねぇんだ」
 行くぞ、と促し現場へと足を向ける。
 いくら幻想的とはいえ、実際に何台も並ぶ警察車両が現実へと引き戻す。
 午前八時過ぎ。街中なら通勤途中の野次馬や近所の住民たちが群れて、そこここで携帯のシャッター音が響くところだが、森の中だからか野次馬はいない。サイレンを聞いてそのうち集まって来るかもしれないが。
 小高い丘の上へと続く階段の入り口には、左右の木から木へとバリケードテープが渡されている。どうやらこの上が現場らしい。階段横にかろうじて「鬼代神社(きしろじんじゃ)」と読める石柱が建っている。かなり劣化して角が欠けたりはしているが、剥き出しの地面に立っている割には苔生していない。きちんと手入れされている証拠だ。
 紺野はバリケードテープの前で待機している警官に「捜一」と印字された腕章を見せる。スラックスのポケットからビニール製の靴カバーを引っ張り出しながら、ちょうど階段を下りてきた顔見知りの鑑識員に声をかけた。
「森さん。ちょうどよかった。もう入れますか?」
 森と呼ばれた中年の男はテープをくぐり抜けると、紺色の鑑識帽を脱ぎうちわ代わりにして頷いた。
「大丈夫だよ、ほとんど終わったから。ああでも……」
 言いかけて、困ったように唸る。
「どうしたんです?」
「んー、説明が難しいな。現場に行けば分かると思うんだけど、ちょっと特殊なんだよね。分からないことが多過ぎるんだ。近藤くんが上にいるから、詳しく聞いてみてよ」
「特殊? え、てか近藤が来てるんですか?」
「来てるよ。珍しくね」
 ひらひらと帽子を振り鑑識車両へ向かう森の言葉に、紺野は眉をひそめた。
 近藤が臨場していることも不思議だが、奴のことだどうせ気まぐれだろう。それより、この道三十年のベテラン鑑識員である森が「特殊」と言い切る現場とは、一体どんなものなのか。そちらの方が気にかかる。
 紺野は靴カバーを履き白い手袋をはめてテープをくぐり抜けた。
「鬼代神社か。初めて聞くな」
「俺もです。あれ? でも紺野さん、以前は右京警察署でしたよね?」
「ああ。だが、ここででかい事件は起こってねぇはずだ。あったらさすがに覚えてるからな」
「そうですよねぇ。あっても窃盗とか……いや、窃盗すらなさそうですもんねぇ、この町。それなのに神社で殺しなんて、罰当たりですねぇ」
 北原の軽口を聞き流し、紺野は鬱蒼と生い茂った木々に挟まれた石段を上る。
 京都と言えば神社・寺院で有名だ。京都市内だけでも伏見稲荷、住吉神社、平安神宮、八坂神社、清明神社、金閣寺、清水寺、東寺と上げればきりがない。ネットの普及により、小さな神社・寺院も知られるようにはなってきたが、京都市内だけでもおよそ2500だ。網羅できなくても不思議ではない。
 この鬼代神社は、おそらくその網羅されない神社のうちのひとつなのだろう。
 二十段ほどの石段を上ると、目の前が開けた。
鎮守の森に囲まれた敷地の入り口には朱色の鳥居が構えており、参道が拝殿までまっすぐに伸びている。参道に沿って両脇に灯篭が並び、右手に手水舎、奥に社務所が設けられている。拝殿の左手に摂末社の祠が祭られ、裏に本殿であろう屋根のてっぺんがちらりとのぞき、社務所の奥には宮司の住宅らしき平屋の建物が見える。
「現場、本殿の方みたいですね」
 境内をぐるりと見渡していた紺野は、北原に言われて足を進めた。拝殿の向こうから、腕章をつけた刑事や鑑識員が出入りしているのが見える。
 境内を確認し、紺野はここがネットや観光ガイドに載らないわけだと納得した。
境内は掃除が行き届いていて綺麗だ。だが、それだけだ。周囲を森に囲まれ、標高も高くない。だから絶景が望めるわけでもない。狭い敷地には設備も特に変わったものはないし、拝殿は古そうだが小ぢんまりしている。この程度の建物は京都にならどこにでもある。おそらく地域の住民しか知らない、観光を全く視野に入れていない神社なのだろう。だが、それで管理しきれるものなのだろうか。神社・仏閣はほぼ木造のため、維持費や修繕費が多額だと聞いたことがある。
 金銭がらみの殺しか? と推測する。
「紺野」
 不意に名を呼ばれ、紺野は我に返った。社務所の前で、小太り体型の男と、白衣を着たひょろりとした男がこちらを見ていた。
 白衣の男がひょいと片手を上げたので、紺野も手を上げて答える。森が言っていた「近藤くん」だ。
 近藤千早(こんどうちはや)は、京都府警察本部刑事部・科学捜査研究所に所属している研究員だ。ひょろりと細身で長身。ぼさぼさの髪で目元が覆われていて、顔をはっきりと見たことがないので正確な年齢は分からない。あれで回りが見えているのが不思議だ。仕事はめっぽうできるが性格に難有り、というのが周りの評価だ。けれど紺野からしてみれば、見た目がどうであろうが付き合いが悪かろうが少々態度が悪かろうが瑣末なことだ。仕事ができて話が通じれば十分だ。慣れ合うつもりはないが、ここ最近では会うとひらりと手を振り合う仲になっている。
「熊さん。ご無沙汰してます」
 そして熊田寅之助(くまだとらのすけ)と言う小太り体型の男は、以前紺野が勤務していた右京警察署の先輩刑事だ。紺野は、刑事捜査のイロハを彼から叩き込まれた。人懐こい性格に丸い体格、小さな眼は優しげな印象を与える。実際、紺野も初めて教育係として紹介されたとき、完全にナメていた。こんな人の良さそうなおっさんが何で刑事になれたんだと思った。だが、怒ると般若のような顔つきに変わった瞬間を初めて見たときは、悪霊でも乗り移ったのかと本気で慄いたほどだ。その変貌がトラウマになり、普段は本当に優しく情の深い人だと分かっていても、少々緊張する。
「ああ。北原くんも久しぶり」
「お久しぶりです。その節はお世話になりました」
「そんなにかしこまらなくてもいいって。三か月前の事件以来だな。元気だったか、と言いたいところだがなぁ、これが懐かしんでる場合じゃねぇんだ」
 溜め息交じりに言いながら、熊田は自前の手帳を開いて被害者の情報を読み上げた。
「被害者はこの鬼代神社の宮司、矢崎徹。四十六歳。妻と高校生の娘の三人家族。奥さんと娘さんの聴取は終わってる。今日の午前二時頃、雷が落ちたような大きな音で目が覚めて、初めは地震かと思ったが、本殿の方から物音が聞こえたため泥棒かと思い、被害者が様子を見に行ったそうだ。しばらくして物音が止んでも被害者が戻ってこなかったため、二人で様子を見に行って、遺体を発見したそうだ。時間は確認してないからよく分からないらしい」
「通報時間は?」
「午前二時三十七分。娘さんが通報してる」
「なら、その約三十七分間が殺害時刻ですね」
「そうなるな」
「今、奥さんと娘さんは?」
「奥さんは事情聴取が済んですぐ、寝込んじまったらしい。娘さん、と佐々木がついてる」
 熊田がわずかに顔を曇らせた。
「佐々木さんが? 何で……ああ、そうか。そうでしたね」
 通じ合った紺野と熊田に、北原が首を傾げた。
 熊田の相棒の佐々木薫子(ささきかおるこ)は、四十過ぎの女性刑事だ。高校一年生の時、押し入り強盗に父親を殺され、犯人はまだ捕まっていない。ちょうど被害者の娘と同じ年頃だ。あの時の自分と重なったのだろう。
 被害者の娘と佐々木の心情を思うとやり切れない。しかし、だからと言って自分にできることは限られている。
 紺野は唸りながら顎をさすった。
 正直、話しを聞いた限りでは特に謎が多い事件とは思えない。強盗犯と遭遇して殺されたのだろうと推理できる。だが、あの森が「特殊」だと言い切ったのだ。何かあるのは間違いない。
「さっき下で森さんに言われたんですけど、特殊な現場だとか」
「特殊か。確かに特殊だな。こっちだ」
 そう言って熊田は本殿へと促した。
 拝殿の横で熊田と近藤が足を止めた。熊田が地面を指差している。
「木片と……植物の塊? 何か建物の一部ですか?」
「何だこりゃ。どっから持ち込んだんだ? 嫌がらせか?」
 一部片付けられ始めてはいるが、まだ転々と転がる木片と檜皮の塊を見渡しながら北原が首を傾げ、紺野が眉を寄せた。
「北原くん、鋭いね。紺野、後輩に負けてどうする」
「は?」
 熊田の賞賛と苦言に、二人揃って疑問の声を上げる。苦笑いを浮かべてから本殿の上を仰ぎ見る熊田に倣い、二人も視線を上げた。ぽっかりと口を開いている屋根の上で、数人の鑑識員が木片と檜皮を収集し、下で待機した鑑識員にバケツリレーよろしく慎重に手渡している。
「この残骸は、本殿の屋根の一部である可能性が高いそうだ」
「何ですか、あれ」
 北原が呆然と呟いた。
「詳しく検証しないと分からないけど……」
 不意に近藤が口を開いた。
「おそらく、外から中へ、力が加わった」
「外から中? 改修工事でもしてたのか?」
「有り得ない。重機も材料もない。それに」
 近藤は言葉を切ると、本殿の階段に足を向けた。上り切って見えた、壊れて外れかけた両開きの引き戸に思わず眉根が寄った。ちょうど紺野の肩と同じくらいの位置が大きく欠けており、木の繊維が「中」へ向かって折れている。さらに戸は「中」へ外れかけていて、これではまるで「外から中へ」何かを無理に引き込んだようだ。
 紺野は眉間に皺を寄せたまま中を覗き込んだ。
 まだ数名の鑑識員が作業をしていた。ずいぶんと片付いているようだが、至る所に傷跡が残されている。特に中央の床が酷い。真上の天井に穴が開いている場所だ。近藤の推測が本当なら、屋根と天井の木材で傷付いたのだろう。左右の木枠の窓は罅が入り、割れている部分もあるが比較的傷跡が少ない。正面の壁一面には、何かが打ち付けられていた跡が残っている。天井付近に引き千切られた神前幕がぶら下がっていることから、神棚が祀られていたのだろう。だが、神棚自体がないのはどういうことだ。そして、その壁から数メートル離れた床に、ビニールシートを被せた物体がある。被害者の遺体だ。
 紺野と北原が中を観察している間に、熊田が鑑識員に入ってもいいかと尋ね、許可が下りた。
「外よりも中に落ちていた残骸の方が圧倒的に多かったし、木材の切り口が中へ向かって折れていた。それに、もし改修工事をしていたのなら、養生くらいする」
 確かに近藤の言うことはもっともだ。境内のどこにも重機が入った痕跡や工事に使う材料は見当たらなかったし、養生や防音シートなどもなかった。ならば、どうやって外から屋根に穴を開けたというのか。
「そもそも、改修工事で本殿がこんな状態になったら大問題でしょ。ましてや人が、心臓を抉られて死ぬなんて」
 一瞬、思考が止まった。何だって?
「心臓を、抉られてる?」
 呆然と紺野が呟く隣で、北原も目を丸くして近藤を見つめている。二人の視線を気にも留めない様子で、近藤は中へと進む。その先には、遺体。
 紺野は生唾を飲み込んで、近藤と熊田の後を追う。と、袖が引っ張られた。振り向くと、北原が真っ青な顔をして何かを訴えていた。
「何だ」
「……ご遺体、見なきゃいけませんか」
「当たり前だろ」
 男に袖を引っ張られても嬉しくない。紺野は北原の手を振りほどいた。若くて可愛い女の子がちょいと控え目につまんで引っ張るから可愛いのだ。
「む、無理です。想像しただけで俺……っ」
 北原は、うっと口元を押さえ背を向けた。紺野は即座に後ろ襟をひっつかみ、無言で遺体まで引きずった。
「吐いたらどうするんですかぁ!」
 半泣きの訴えに、残っていた鑑識員たちが一斉にこちらに鋭い視線を向けた。てめぇ吐いたりしたら承知しねぇぞ、という無言の圧が凄まじい。
「耐えろ」
「無理ですって!」
 北原が刑事課に配属されて三年目になる。これまで、自殺、刺殺、絞殺、撲殺、溺死と、いくつもの事件現場に臨場して遺体を目にしてきたが、さすがに心臓を抉られた遺体など見たことがない。だが、それは紺野も同じだ。
 紺野は遺体の側で北原を放すと、しゃがみ込んで両手を合わせた。
「北原。お前、これから先も刑事としてやっていく気があるなら見ろ。その気がないなら、今すぐ出て行け」
 そう言い放ち、目を閉じる。
 初めて北原を連れて臨場した事件の遺体は、撲殺だった。被害者は北原と同じ年頃の男性で、集団で暴行されたあげく金品を盗られ、全裸にされて公園の植え込みに放置されていた。死因は内臓破裂。肋骨数本と鼻や顎が折られ、元の肌色を探すほうが困難なほど皮膚は色を変えて腫れ上がり、顔の形もむごたらしいほど変形していた。その遺体を、北原は躊躇なく見た。顔は歪めたが、それでも真っ直ぐに遺体を見て、呟いた。許さない、と。
 紺野が目を開くと、北原が青白い顔のまま隣にしゃがみ込んだ。
「すみません」
 一言そう告げ、北原は両手を合わせて目を閉じた。まるで、嫌がったことを遺体に詫びているようだった。
 紺野は短く嘆息し、熊田に視線を送った。熊田はその視線を受け、小さく頷くとゆっくりビニールシートを剥がした。
 血の気が失せた顔に、大量の血液が固まってへばりついている。心臓を抉られた際に吐血したのだろう。口から顎、首、そして床にまで大量の血痕が残されたままだ。埃にまみれた浴衣は至る所が裂け、心臓部分に拳大の黒い穴がぽっかりと開いている。元は紺色だったのだろう。ところどころ元の色が残っているが、多量の出血でほとんどがどす黒く染まっている。体の下にはまだ木片や硝子片が残されていた。
「多分、神棚が壊された後に殺害されたんだと思う。神饌を踏み潰した後と、背中を中心に、細かい木片や硝子が刺さってた」
「今はほとんど片付いてるけど、この壁際にあった神棚が原形を留めてないくらい破壊されていてな。その残骸の中にご遺体を発見したんだ」
 近藤の説明に熊田が補足した。
「……確かに、心臓がないな。人の心臓ってのは、そんな簡単に取り出せるものなのか?」
 紺野が腰を上げながら近藤に尋ねると、それに倣って北原も腰を上げた。熊田がビニールシートをかけなおす。
「道具を使えばね。素手じゃ無理。肉と胸骨と肋骨を同時に突き破るのは不可能だよ。そもそも、そんな簡単に心臓を抉られるような人体構造じゃ困るでしょ」
「まあ……確かにな」
 冷静に考えれば分かることだ。映画などで時々見かけるものだからつい尋ねてしまったが、それならこの遺体はどう説明する。
「それを踏まえた上で、森さんは特殊な現場だって言ったんだと思うよ」
 自分の考えを見透かされた気がして、紺野はわずかに眉を寄せた。
「ただ、その不可能を可能にした人間がいる可能性がある、かもしれない」
 あまりにも曖昧な見解に、紺野は胡乱な目を近藤に向けた。
「どうした。珍しいな、お前がそんな言い方をするなんて」
 超現実主義と言うべきか、それとも科学者だからなのか。近藤は普段、現場の状況と検査結果をそのまま伝えることしかしない。推理は自分の仕事ではないというのが持論だ。
 近藤はくるりと顔を向け、ゆっくりと口角を上げた。
「だって、もしそんな人間がいたとしたら、とても興味深いでしょ。しかも屋根まで破壊したかもしれない怪力だよ。想像しただけでもぞくぞくする」
 いやもうそれ人間じゃねぇだろ、と突っ込みつつ、不気味ににやりと上がった口角に紺野と熊田は溜め息をつき、北原は身震いをして一歩後退した。科捜研に就職していなかったらこいつが犯罪者になっていたかもしれない。
「そうだ、これを見て」
 あっさりと普段の口調と表情に戻り、近藤がその壁の一部を指差した。ちょうど胸の辺りだ。変わり身早っ、と北原が突っ込んだ。
「ここだけ、穴が開いてる」
 言われて、紺野と北原はああと同時に声を上げた。十センチほどの正方形の穴で、中には紫色の小さな座布団が残っている。
「何かが入ってたんですかね?」
「遺留品の中には?」
「それらしい物は見当たらなかった。入っていたかどうかも分からないけど」
「ご家族に確認は?」
「もちろん。二人とも知らなかったそうだよ」
「古い神社みたいだしな……被害者だけが知っていたか、被害者すら知らなかったか……」
「ここまで謎が多いと、仮説すら立ちませんね」
「悪いが、謎はまだあるぞ」
 そろそろご遺体を運んでいいですか、と担架と共に来た鑑識員に、紺野は視線を熊田に向けたままああと答えた。
「侵入経路が全くの不明だ」
「はぁ?」
 二人の素っ頓狂な声がシンクロした。
「ちょ、待ってください。侵入経路が不明って、何でですか。足跡が残るでしょう? 防犯カメラだって」
「まあ落ち着いて、北原くん。説明するから」
 どうどう、と言いながら両手を上下に振って北原を宥め、熊田は続けた。
「まず、防犯カメラだけど。一台もなかった」
「今どき?」
「不用心にもほどがあるよね」
 信じられないと言いたげな近藤に、北原が大きく頷いた。
「確かにね。それと指紋だけはそこら中にべったりだった。下足痕(げそこん)は、ご遺体の側だけ。あとは残骸に擦れて消えたんだろうとのことだ」
 そこで熊田は言葉を切った。しばらく不自然な間が空いた後、紺野が口を開いた。
「え、それだけですか?」
「それだけだ」
「いやいやいや。指紋はともかく、参道とか階段とか、下足痕は絶対残るでしょう?」
「境内周辺すべて調べた上で残っていなかったから、侵入経路が不明なんだよ」
「鑑識総出で調べたんだ。間違いないよ。優秀さは知ってるでしょ」
 唖然とする紺野の横で、突然北原がぶつぶつ何か呟き始めた。うわでた、と紺野が溜め息交じりに呟いた。
「今日の夜中二時過ぎに犯行が行われた、とすると足跡が消える可能性としては雨だけど、今日は雨なんか降ってないし、そもそも足跡を残さずに侵入したのに本殿には指紋も足跡も残すって不自然じゃ……てか、足跡を残さずに侵入するとかできるのか? つーか重機や道具なしでどうやって屋根に穴なんて開けんだって話しだよ。そもそも強盗ならもっと静かに入って短時間で済ますよな。わざわざでっかい音立てて屋根に穴まであけて神棚壊すとか、有り得ねぇ。大体、何で心臓抉り取る必要があったんだ? 意味も目的も分からん」
 俯き唇に拳を当てて呟き続ける北原を、熊田が心配そうに見つめている。一方近藤は白けた顔だ。
「言ってることはまともだけど、彼、大丈夫なの? 良い心療内科知ってるから紹介しようか?」
「あれはあいつなりに情報を整理してるんだ。ほっといてやってくれ」
「そうなの? でも、かなり不気味なんだけど」
「お前が言うか?」
「どういう意味かな? 情報流してあげないよ」
「ガキみたいなこと言ってんじゃねぇっ。つーか、そもそも何でお前が現場にいるんだ。科捜研はめったに現場に来ねぇだろ、特にお前は」
「現場の特異性を小耳に挟んでね。面白そうだなと思って、森さんに頼んだんだ」
「面白そうって……お前なぁっ!」
 不謹慎にも程がある。噛み付くと、近藤はそっぽを向いた。都合が悪くなるといつもこうだ。紺野は盛大に舌打ちをかまし、八つ当たりで北原の頭を軽く叩いた。放っておけばいつまでたってもこのままだ。
「錯乱してんじゃねぇ。はっきりしたことが分からねぇなら、周辺の聞き込みからだ。頭使っても駄目なら足使え、足」
「そうそう。頭を使うのは僕らの仕事だよ。それじゃあね、そろそろ戻って仕事するよ」
 ひらひらと手を振りながら、近藤は背を向けた。
「報告、早めに頼むぞ」
「さあね」
 そこで「分かった」と言えば可愛気があるのに、といつも思う。紺野はまったくとぼやき、熊田に向き直った。
「捜査本部、立つでしょうね」
「この様子じゃあな」
 近藤の後を追うように、本殿の外へ足を向ける。北原がまだ紺野に叩かれた頭をさすっている。
「さて、そろそろ時間だな」
「佐々木さんですか」
「ああ。お前たちを待ってる間だけならって、俺が許可したんだ。じゃあ、捜査本部で」
「はい」
 自宅の方へ向かった熊田を見送って、紺野は参道を階段へと進む。
「紺野さん、佐々木さん、何かあったんですか?」
「ん、あー……」
 話していいものかどうか迷った。紺野は佐々木本人から聞いたし、彼女もどこか吹っ切れているようにも見えた。だが、そうでもないのかもしれない。
「機会があったら本人から聞け。他人が話すような話しじゃねぇよ」
 突き放したように言うと、北原は察した表情を浮かべた。
「分かりました」
 遺体を見ることを拒んだ時のように、時々刑事らしからぬ態度を取ることもあるが、基本的には勘も鋭いし空気も読める。言葉の裏を察することもできる。紺野はふっと口角を上げ、そういや、と北原に視線を向けた。
「お前、よく耐えたな」
「……う……っ」
 一瞬きょとんとした顔をした後、小さく唸ったかと思ったら、北原は口を押さえて駆け出した。しまった、と紺野は渋面を浮かべた。
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