第12話

文字数 3,042文字

 熊田は静かに背を向け、大きく深呼吸をしてからその場をあとにした。入所者やスタッフたちを横目にデイサービスルームを出て、フロントで案内してくれた女性スタッフに会釈をし、自動ドアをくぐって外へ出る。
 燦々と降り注ぐ夏の日差しの中、熊田はこっそりと目元を拭った。
「年取ると、どうも涙もろくなるな……」
 自嘲気味に笑って息をつく。
 彼女は、おそらく一時的に意識が戻っただけだ。佐々木の言葉を正確に理解しているかどうかも分からない。けれど、反応が返ってきたのは事実だ。
 気を取り直すようにもう一度深呼吸をして、高く澄んだ空を仰ぐ。
 正直に言えば、犯罪被害者や遺族の気持ちを完璧に理解できてはいないだろう。理解できるとも思っていない。
 五十年近く生きてきて、犯罪に巻き込まれたことも、被害者になったことも、大切な人を殺された経験もない。妻も二人の子供も、大きな怪我や病気をすることなく毎日元気に過ごしている。双方の両親は高齢で、膝の調子が悪いだの寝つきが悪くなったなどとぼやいてはいるが、まだまだ元気だ。
 ごく普通の家庭で育ち、就職して、結婚して子供を授かり、日々悩んだり理不尽に憤りながらも、恵まれた環境で生きてきた。だからこそ、刑事になって凄惨な事件や身勝手な犯人を見るたびに思った。
 守らなければ、と。他人の身勝手な理由や理屈から、大切な家族や仲間を守らなければと。
 誰しもいつかは年を取り、死んでいく。それはこの世の理だ。誰にも変えようがない、全人類に平等に訪れる運命。ならば、誰もが理通りに人生を閉じる権利があるはずだ。決して他人の手で奪われていいものではない。
 病気を治すのが医者の仕事ならば、理不尽な死から人々を守るのが、警察官の役目だ。それに――。
 熊田は目を地面に落とし、頭を掻いた。
 展望台での事件の日、送り届けたのは距離的に桃子、彩、美紀の順だった。彩は、先に美紀を送ってやってくれと言ったけれど、彼女は「いいよ最後で」と半ば無理やり彩を先に降ろした。
美紀は「あたしが言ったって言わないでくださいね」と、いたずらっ子のような顔で教えてくれた。
『おじさん、昔、犬から彩を守ったこと覚えてます?』
 そう聞かれて驚いた。覚えていたのか。
 彩がまだ幼い頃のことだ。ある日、子供二人を連れて公園に遊びに行った。息子は滑り台、彩は砂場でそれぞれ遊んでいて、熊田はベンチでのんびりとコーヒーを飲んで二人を見守っていた。すると突然、ハスキー犬がものすごい勢いで公園に駆け込んできた。息子は滑り台の上にいて助かったが、犬は砂場から動けずにいた彩に向かって大きな口を開けて突進した。大慌てで両者の間に飛び込んで、片腕に彩を抱き込み、もう片方の腕で犬を押しとどめると、躊躇いなく噛まれた。幸いにも甘噛みだったため怪我はなかったが、公園は一時騒然となった。
 犬はただ一緒に遊びたかっただけなのだろうが、大きなハスキー犬に勢いよく迫られれば、子供は怯えるだろう。子供たちの泣き声が響く中、真っ青な顔をした飼い主が駆け込んできて犬は捕獲され、事は収まった。散歩中に首輪が抜けてしまったらしく、飼い主が後日改めて謝罪に訪れた。
『そう、それです。あの子、いつも言うんですよ。あの時はすごくかっこよかったのにって。でもね、憎まれ口ばっかり叩いてますけど、本当はおじさんのこと大好きですよ。だって、お父さんなら絶対に放っておかないって言って、尊って子を助けようとしたんですもん。桃子ちゃんを庇ってるおじさんたちを見てる時も、死にそうな顔で心配してましたし。大好きなお父さんと同じ仕事をしたいんですよ、あの子』
 素直じゃないんだから、と美紀は笑いながら最後に付け加えた。
 あの時はすごくかっこよかったのに、の「あの時は」は引っかかるが、美紀の内緒話は父親として嬉しくもあり、ひどく照れ臭くもあった。
 警察官が、どれだけ忙しく危険な仕事か分かっているはずだ。警察学校に入れば遊べなくなるから今遊んでおきたかった、という理由は納得しがたいけれど、警察学校がどんな所なのか、きちんと調べた証拠でもある。全て分かった上で、父親と同じ道を選んだ。
 熊田は、おもむろに出っ張った腹をさすった。自分で言うのも何だが、昔はもっと痩せていてそこそこモテたのに、気が付けばこれだ。
「ダイエット、するかぁ」
 いくつになっても子供に恰好良いと思われたいのは父親の性だ。
 腹に力を入れて、引っ込めたり膨らましたりする。と、不意に背後の自動ドアが開き、熊田ははっと我に返って腹から手を離した。
「熊さん」
 振り向くと、佐々木と典之が連れ立って出てきた。目の前で涙を見せたのは予定外だっただろう。二人とも照れ臭そうな顔だ。だが、熊田の笑顔もぎこちない。こんな所で腹の体操なんかやるもんじゃない。
「おう、もういいのか?」
「はい。気付いたらいないから、びっくりしました」
「そりゃ、紹介が終わったら家族水入らずだろ」
 にっと笑うと、二人はくすくすと声を潜めて笑った。
 典之と挨拶を交わして分かれ、施設をあとにする。さてどの辺りから聞き込むかと考えていると、佐々木が言った。
「熊さん、ありがとうございました。母と夫に会ってくれて」
「別にいいって。優しそうな旦那じゃねぇか。おふくろさんも、良かったな」
 あえて濁すと、佐々木は少しだけ寂しそうに、けれど嬉しげに笑って頷いた。
 と、二人同時にメッセージの着信が鳴った。佐々木が鞄を探る。
「紺野か下平さんか?」
「下平さんですね。明さんから、明日の話がしたいと連絡があったようです。あ、下京署に集合でどうですかって」
「ああ、なるほど。了解だ」
 即答すると、佐々木は「了解、と」と一人ごちながら返信した。
「とうとう、明日ですね……」
 不意に、携帯を鞄に戻しながら佐々木が神妙に呟いた。
「ああ……」
 以前の会合での話を聞く限り、総力戦になる。彼らが戦っている間に、こちらは楠井家と武家屋敷を探るのが役目だ。それは分かっている。彼らがどれほど強いのかも、自分たちにはそうするしかないことも、頭では十分理解している。しかし、陰陽師とはいえ一般人で、高校生もいる。心配にならない方がおかしい。
「熊さん」
 不意に呼ばれ、隣を一瞥する。
「絶対に、情報を持って帰りましょう」
 前を見据えてそう言った佐々木の眼差しにとても強い意志が見え、熊田はわずかに目を見開いた。
 そうだ。固定電話で連絡を取っていたのなら、彼らが楠井家で生活、あるいは出入りしていたことは間違いない。必ず何か痕跡が残っている。
「ああ、そうだな」
 何でもいい、些細なことでもいい。身を呈して戦ってくれる彼らのためにも、事件解決に繋がる何かを持って帰らなければ。
 息子はIT企業への就職を希望している。娘は警察官を志した。妻は、近々子供二人を連れて田舎への帰省を楽しみにしている。残念ながら休暇が取れそうにもないので、熊田は留守番だが。
 そして佐々木。母親は認知症でまともな会話はできない。けれど、優しい夫が側にいて、事件の再捜査が行われ、一時的とはいえ母親は意識が戻った。また戻る時があるかもしれない。そしていずれ、あんな形で父親と死に別れたからこそ、母親はきちんと看取らせてやりたい。
 守りたい家族がいる。仲間がいる。叶えてやりたい未来がある。絶対に、犯人たちの思惑通りにさせてはならない。
 熊田は、改めて覚悟を決めるように、ハンドルを握る手に力を込めた。
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