第2話

文字数 3,513文字

 右近と茂が昴へと駆け寄った直後、美琴はあまりにも禍々しい気配に顔をしかめた。
 結界を丸呑みできそうなくらい巨大な悪鬼が流れ込んでくる。そのすぐあとに、結界を張った本殿の裏側から南へ向かって頭上を隗が吹っ飛んで行き、一拍置いて柴が大きく飛び越えた。
 悪鬼が結界を狙ってくるのは想定内。そして間違いなく分裂する。触手伝いに本体を調伏されると一気に戦力が減るからだ。情報は全てあちらに渡っている。取り込もうとはしないだろう。となると、攻撃は触手のみ。いや、取り憑く方を狙ってくるかもしれない。昴と隗は、茂と柴が抑えてくれている。ただ、客観的に言えば、隗はともかく昴はそう長時間抑えてはおけないだろう。寮襲撃時の動きもそうだが、争奪戦で晴の相手を任されたくらいだ。相当な実力者。下手をすれば、茂が殺される。
 擬人式神には、茂を援護するように香苗から事前に指示が出されている。それでもできるだけ早く悪鬼を一掃して、加勢へ向かわなければ。
 とは思うものの、ここで一人で突っ走るほど馬鹿ではないし、自分を過大評価していない。自分の実力がどれほどのものか、重々心得ている。
 美琴はきゅっと唇を結び、悪鬼の塊を睨み上げた。結界の上空からはみ出して、こちらの馬場まで流れ込んでくる。と、どうやら作戦が成功したらしい。参道から大量の水塊が空を切り、それを追いかけるように水塊を携えた右近が戻ってきた。結界や悪鬼よりはるか上。水塊が馬場に流れ込んだ悪鬼に激突した。
 オオオォォ、と腹に響く低い唸り声を上げながら消滅する悪鬼を飛び越えながら、右近が腕を大きく振った。携えていた水塊が、結界を覆う悪鬼へ向けて空を飛ぶ。ドドドドドッ! と機関銃のような爆音を響かせながら悪鬼を貫き、結界が火花を上げる。その間を縫って襲いかかる触手を次々と叩き切る。目で追えないくらいの剣速。
 ここまで激しい戦い方をする右近は初めて見る。おそらく、これでも全力ではないのだろう。変化可能な式神が全力で戦えば、一帯はいっそ荒野と化す。
 これあたしたち必要? と思うほどの容赦ない攻撃と威力で、どんどん悪鬼が減っていく。不意に、宙に浮かんでいた水龍がぴくりと反応し、体を捻って地面を見下ろした。一拍遅れて、感覚が悪鬼の気配を捉える。
 巨大悪鬼の気配に紛れたのは、人ではなく悪鬼だったか。
「香苗、下!」
 地面だ。結界の明かりでほのかに明るいためよく見える。香苗が勢いよく目を落とした。
 地面を這う黒い影が、蛇のようにうねりながらものすごい速度でこちらへ向かってくる。しかも東と西、両側からの挟み打ち。間違いなく昴の指示だ。わざわざ真正面から現れたのは、こちらの位置を把握するため。自分を運ばせた悪鬼に指示を出し、死角になる場所で悪鬼本体と分裂させ、回り込ませたのだ。
「尖鋭の術!」
「はい!」
 せっかく柴がヒントをくれたのに、考えが至らなかった。しかも向小島で大河を捕獲した時と同じ手段。知っていたのに。
 美琴は小さく舌打ちをかまして霊符を、また香苗も霊符を取り出しながらその場で素早くしゃがみ込み、水龍が大量の水塊を顕現する。美琴が左、香苗が右。
「オン・ノウギャバザラ・ソワカ!」
「オン・ビリチエイ・ソワカ!」
 ゴゴゴ、と地面が微かに揺れ、悪鬼が動きを止めた。霊符が自立し、しかし今放つと触手で攻撃される。ぎりぎりまで待て。
帰命(きみょう)(たてまつ)る。尖鋭鋼氷(せんえいこうひょう)堅忍不撓(けんにんふとう)穢澱貫滅(あいでんかんめつ)――」
帰命(きみょう)(たてまつ)る。尖鋭鋼土(せんえいこうど)堅忍不撓(けんにんふとう)穢澱貫滅(あいでんかんめつ)――」
 馬場の上空に無数の透明な針が密集して顕現し、地面を這っていた悪鬼が一斉に姿を現した。まるで真っ黒な地面が跳ね上がったようだ。
 ――大きい!
 一メートルほどの高さに浮かんだそれは、馬場よりひと回り小さい程度の横幅だが、どのくらいか視認できないほど長細い。それが、弾けたように無数に分裂した。
 美琴が霊符を放ち、二人の声が重なる。
急急如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)!!」
 びゅっと音を立てて空中から透明な針が降り注ぎ、ゴッと地面から土の針が飛び出し、悪鬼からは上下に触手が伸びた。全てのタイミングが、同時だった。一度の瞬きが終わらないくらい一瞬。
 ――ドンッ!!
 轟音が境内に響き渡り、微かに地面が揺れてもうもうと土煙が上がる。分裂したとはいえ、ある程度は捉えたはずだ。
「香苗、水龍!」
「えっ」
 美琴は香苗の腕を掴んで引っ張り上げ、流れてくる土煙から逃げるように神橋の方へ駆け出した。水龍も水塊を顕現したままくるりと体を回して追いかける。と、背後で豪快な激突音が鳴り響いた。
 土煙が煙幕になっていたおかげもあるのだろう。尖鋭の術に気を取られ、とっさに離れた二人と一体に攻撃を仕掛けたが一歩遅かったようだ。触手同士が激突したらしい。
 神橋を渡りながら香苗の手を離し、肩越しに振り向く。逃れた悪鬼が土煙から飛び出して、融合しながら追ってくる。
 美琴はわずかに眉を寄せた。てっきり分裂したまま追ってくると思っていたのに。毛利元就だったか。「三矢(さんし)の教え」のように、融合した方が速度や威力が出るのだろうか。この数の悪鬼を相手にしたことがないので定かではないが、何にせよ都合はいい。
「香苗、よく聞いて――」
 背後では水龍が水塊で応戦してくれている。息つく暇もなく生成される水塊と触手がぶつかり合い、白と黒の煙が混ざり合う。三メートルと大きい分、水塊の威力も強く攻撃の範囲も広いが、それでもまだ排除しきれない。仕留め切れなかった触手が、広場を駆ける美琴と香苗の足元に突き刺さった。
 簡潔に作戦を伝えると、香苗は一瞬何か言いたそうな顔をしたが、結局険しい顔で頷いた。
「分かった。でも、気を付けてね」
「あんたもね」
 広場の中程で、不意に香苗が踵を返した。靴底を後ろへ滑らせながら霊符を取り出し、素早くしゃがみ込んで地面に叩き付ける。水龍が香苗の直線上で応戦しつつ、じわじわと後ろへ下がってくる。
「オン・ビリチエイ・ソワカ。帰命(きみょう)(たてまつ)る。鋼剛凝塊(こうごうぎょうかい)――」
 ガアッ、と威嚇するように水龍が大きく口を開けた。これまで以上の水塊が顕現し、前方はもちろん、左右から回り込んだ触手へと放たれる。
渾天雨飛(こんてんうひ)斥濁砕破(せきだくさいは)急急如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)!」
 霊符が光を放ち、ぶわっと広場一面の砂が浮いた。直径一センチほどだろうか。小石混じりの砂が小さな塊となって一斉に悪鬼へ向かって空を切る。とたん、それを避けるように水龍が下降し、体をくねらせながら地面すれすれにこちらへ飛んできた。香苗も立ち上がり駆け出し、ポケットに手を入れた。
 一方美琴は、霊符を取り出しながら二の鳥居まで突っ走った。
「ノウマク・サマンダ・バダナン・バロダヤ・ソワカ」
 宗史の弓矢なら、悪鬼の動きを止められた。大河の霊力量なら、一度の攻撃で一掃できた。樹たちなら、触手を捌きながら本体まで接近できた。略式が使えていれば、作戦に幅が広がった。まだ霊刀を会得したばかりだからと言い訳はできる。でもしたくない。いつか独鈷杵を扱えるようになりたいと思っていたのに、戦いで必要になると分かっていたのに、間に合わなかった。自分の未熟さと霊力量不足が、歯痒くて仕方ない。
 でも、だからこそ頭を使え。未熟さをカバーできるのは、それしかない。これは訓練ではなく、実戦なのだ。悔しがるのは、勝利してからだ。
 美琴は二の鳥居をくぐると霊刀を消し、足を止めて振り向いた。視線の先では、小さな土の塊が悪鬼に激突し派手な衝撃音と土煙を上げている。広場の半分から向こう側全てが煙幕で覆われ、香苗と水龍が駆け寄ってくる。
帰命(きみょう)(たてまつ)る。迷霧醸成(めいむじょうせい)――」
 突如、周囲の気温が急激に下がった。何もない宙から湧き出るように白い影が現れ、霊符が手から離れて飲み込まれる。不意に水龍が水塊を顕現しながら旋回し、土煙から飛び出してきた触手へ放つ。
我身穏伏(がしんいんぷく)奸存撹惑(かんぞんこうわく)――」
 白い影が真言に合わせてどんどん質量を増し、
急急如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)!」
 音もなく弾け飛んだ。ほぼ同時に、
「皆、悪鬼を引きつけて」
 香苗がそう言って五体の擬人式神を放ちながら美琴の横をすり抜ける。白い影は細かい粒子となってあっという間に悪鬼もろとも土煙を飲み込み、一帯を覆い尽くしながらさらに濃さを増してゆく。濃霧だ。
「水龍、上へ!」
 声量を押さえて指示を出す。真っ白な霧の中から水龍が姿を現し、後ろへ回り込んで襟首をくわえた。そのままぐんと勢いよく引っ張られ、足が浮く。
「鳥居の上に」
 一気に引き上げられ、慎重に足で感覚を確かめてから鳥居の上、笠木(かさぎ)に着地する。
「悪いけど囮を頼んだわよ。気を付けて」
 早口で言い置くと、水龍は尾を揺らして霧の中へ姿を消した。
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