第13話

文字数 5,357文字

 宗一郎の気遣いに甘えて自室に戻った春平は、ベッドの端に腰を下ろして長い溜め息をついた。
 柴と紫苑が縁側で足を止めた時のことを思い出しながら、背中から倒れ込む。天井を見つめて、目を閉じた。
 あの時、ちゃんと笑えてたかな。
 自信がない。
 柴と紫苑に助けられ、彼らと共に戻ってくる。そう、宗史から連絡を受けた宗一郎の報告を聞いた時、耳を疑った。
 陽や大河たち全員が無事なことには心から安心したけれど、それ以上に衝撃で、全員に動揺が走った。特に昴と香苗は顔を強張らせ、酷く怖がっていた。それを緩和させたのは、あの日公園で同じく鬼と対峙した茂だった。
「僕は賛成だよ。公園の時も昨日も、彼らは助けてくれた。今日で三度目だ、信じるに値すると思う。それに、宗史くんたちが大丈夫だと判断したんだ。さらに言うなら、あの樹くんが反対しなかったってことだよ?」
 樹の警戒心の強さは折り紙つきだ。今でこそコンビを組んでいる怜司でさえ、例外ではない。そんな彼が承諾した。そう諭されると反論できない。
「それに、現実問題、これから先彼らの協力が必要になってくると思う。鈴を退けた式神もそうだし、何せ、向こうには鬼がいる。アミューズメント跡地の浮遊霊もほとんどが悪鬼化していた。あんなことができる以上、向こう側の戦力は計り知れない。仲間は多い方がいいよ」
 的を射た見解に、誰も反論しなかった。寮内において、何かが起こった時に中心となるのは樹。その補佐的な位置に怜司と茂がいる。樹も怜司も不在の今、皆をまとめるのは茂だ。
「ただね」
 一転して柔らかくなった口調に、俯いていた昴と香苗が顔を上げた。
「もちろん、皆の気持ちも分かるんだ。僕も鬼の強さを知ってるからね。それに藍ちゃんと蓮くんもいるし、もしもという可能性が全くないとは言い切れない。でも、彼らと接触するなら今しかないと思うんだ。今なら、宗一郎さんも明さんもいる。式神も宗史くんたちも勢揃いだ。一度、きちんと会ってみる価値はあるんじゃないかな」
 そう言って微笑んだ茂に賛同したのは、意外にも美琴だった。
「分かりました」
 続いたのは、華と夏也、弘貴。
「そうね。何度も助けてもらっておいて、お礼言ってないのよねぇ」
「はい。お礼を言わなければいけません」
「ですよね。そもそも俺会ったことないし、会ってみないと分かんねぇこともあるし」
 さらに昴と香苗が顔を見合わせた。
「そう、ですよね。きちんと話もしてないのに、助けてもらっておいて失礼ですよね」
「あ、あたしも、あの時のこと、お礼言ってないので言いたいです」
 最後に、全員から視線を向けられて春平が小さく頷いた。
「分かりました」
 茂が宗一郎と明へ顔を向けた。
「ただ、条件があります。わずかでも彼らの動きに違和感を覚えた場合は、即刻拒否します。構いませんか」
 強い口調で告げた茂に、宗一郎と明は同時に頷いた。
「ええ。もし見誤っていた場合、私たちが責任を持って調伏します」
 心強い宣言に、全員から安堵の息が漏れた。
 しかし、そんな危惧を察していたかのように、柴と紫苑は自ら縁側の前で足を止めた。彼ら自身、自分たちが人間からどう思われているのか正確に把握しているようだった。あるいは、白い鬼に襲われた者たちへの気遣いだったのか。何にせよ、彼らは自分たちの立場を十分過ぎるくらい、理解していた。
 本当は、玄関で彼らの姿を見たときから逃げたくて仕方がなかった。宗一郎と明、式神が揃っていたし、思いがけない華の追い出しや、大河が鳴らした盛大な腹の虫で若干落ち着いたけれど、一つ違えば確実に逃げ出していた。皆、どうしてあんなに平然としていられるのか分からない。特に香苗だ。公園で襲われたにも関わらず、ごく間近で配膳する間、怖がっているようには見えなかった。
 茂の見解も理屈も、頭ではきちんと理解できる。助けてくれたことも感謝している。けれど、どうしても心が追い付いてくれない。影正の心臓を食らったあの光景が、瞼に焼き付いて離れない。白い鬼と同じ「鬼」であり、人を食らって生きる生き物だという事実の方が、比重が重い。
 いつ、柴と紫苑が我を失って襲ってくるか分からないのに。
 春平は両腕を瞼の上で交差させた。
 自分だけだろうか、こんなに不安に駆られているのは。彼らを信じ切れていないのは。自分が弱いから、彼らを必要以上に怖がっているだけなのだろうか。
 腕の下で、春平が眉を寄せた。と、扉が鳴った。弘貴――だったらノックと同時に開ける。誰だろう。
「はい」
 体を起こしながら返事をすると、扉が開いた。顔を覗かせたのは、昴だ。
「ごめんね、もう寝てた?」
「あ、いえ大丈夫です」
 慌てて戸口に歩み寄る。
「借りてた本、忘れないうちに返しておこうと思って。ありがとう、面白かった」
 そう言って差し出されたのは、三日前に貸した文庫本だ。しかも厚みのある上下巻二冊。受け取りながら春平は目をしばたいた。
「もう読んだんですか?」
「うん。面白くてつい読んじゃった。実は寝不足なんだ」
 自嘲の笑みを浮かべた昴に、春平は力なく笑みを返して表紙に目を落とした。ふと、昴が笑みを収めて眉尻を下げた。
「……怖い?」
 静かに確信を突かれ、春平はびくりと肩を震わせて文庫本を持つ手に力を込めた。素直な反応に、昴が苦笑する。
「春くん、ちょっと強張ってたから。大丈夫かなって思って」
「あ……」
 やっぱり強張っていたのか。春平は脱力した息を吐いた。
「ほんと言うとね、僕もちょっと怖かったんだ」
 え、と息を吐くような驚きを漏らし、春平は昴を見上げた。そんな風には見えなかったけれど。春平は扉を押さえたまま脇に避けた。
「どうぞ」
 もしかして、昴も話をしたいのかもしれない。そう思って招き入れると、昴はありがとうとすんなり足を踏み入れた。
 本を机の上に置き、ベッドの端に二人並んで腰を下ろす。こうして昴と二人きりというのは初めてだ。
 一年前、寮に入ってきた時は人見知りもあってか、ほぼ口を開くことはなかった。日々の生活と訓練を通して、ここ数カ月でやっと普通に話すようになったほどだ。大河が来てからは、さらに口数も増え笑顔も増えた。昴が寮に入った理由は、霊力が強く生活に支障が出ていたためだと聞いており、先日の会合の時、初めてその内容を知った。穏やかで優しいし、もちろん嫌いでもなければ避けているわけでもない。体術の手合わせに付き合ってもらうこともある。ただ、これまでも何度か本の貸し借りはあったけれど、お互い感想を言い合うのが苦手なのか、面白かったありがとう、と礼を言う程度で、二人きりで話すことは一度もなかった。
 昴が沈黙を破った。
「あの日」
 春平が振り向いた。
「公園で、双子と香苗ちゃんを守りながら逃げなきゃいけない時間は、すごく長く感じたよ。もうね、このまま延々と続くんじゃないかって思ったくらい。……まだ、夢に見る時があるんだ」
「昴さん、それ……」
「完全にトラウマだよね」
 ははっ、と自嘲気味に笑った。笑いごとではないように思えるが。
「大丈夫なんですか? 今から、その……」
 一緒に暮らすのに。顔を逸らした春平を、今度は昴が見やった。
「断言はできないけど、多分大丈夫じゃないかな」
「……どうして、ですか?」
 断言できないというわりには、ずいぶんと口調が軽い。ざわりと心がざわついた。抑え込むように、膝の上の拳を握る。
「だって、宗一郎さんと明さん、それに皆の判断なんだよ?」
「でも、だからって……っ」
 口調がきつくなったのが自分で分かって、春平は言葉を飲み込んだ。昴を責めるつもりはないのに、この苛立ちはなんだろう。きゅっと唇を結んだ春平をじっと見つめ、やがて昴が落ち着いた声色で語った。
「僕は、皆に助けてもらったから」
 顔を上げない春平から、床へ視線を移す。
「あの頃、行く場所もなくて、頼る人もいなくて、これから先どうすればいいのか不安でしょうがなかった。なんでこんな力を持って生まれたんだろうって、こんな力がなんの役に立つのかって、そんなことばっかり考えてた。そんな時に助けてくれた人たちの判断を、僕は信じようと思う。それにね、ここに来て、僕は初めてこの力が誰かの役に立つことを知ったんだ。嬉しかった」
 目じりを下げて、昴は少し照れ臭そうに微笑んだ。
 会合の時、苦しげに訴えた昴の言葉を思い出した。昴も母親も、悩んだと。もし朝辻神社から盗まれた文献の存在を知っていれば、こんなにも悩まなかった、と。その気持ちは、痛いほどよく分かる。施設にいた時と同じだ。頻発する心霊現象は、もしかすると自分たちのせいではないのか、人ならざる者が見えるこの力は一体何なのかと、毎日毎日、怯えながら暮らしていた。耐えられたのは、弘貴と夏也がいてくれたからだ。
 そして宗一郎に出会って、この力の正体を知った。
「ねぇ、春くん」
 呼びかけられて、春平は顔を向けた。
「確かに、柴と紫苑はあの白い鬼と同じ鬼だよ。それは間違いない。けど、柴は柴、紫苑は紫苑、個人として見てあげられないかな? 鬼にも個々に人格があると思うし――あれ、鬼だから人格とは言わないのかな?」
 なんて言うんだろう? と首を傾げた昴を、春平は目を丸くして見やった。息を飲むほどの衝撃だった。
 どうして、気付かなかったのだろう。
 「施設出身」だからと気を使われることを寂しく思ったのは、自分なのに。大河や皆が自分自身を見てくれたことが、あんなにも嬉しかったのに。
 自分がされて寂しかったことを、柴と紫苑にしていた。
「あ……僕……」
 情けなくて、鼻の奥がつんと痛んだ。
 もし、強張っていたことに柴と紫苑が気付いていたら、どう思っただろう。自分たちの立場を理解し、気遣うような態度で頭を下げる彼らを、傷付けたかもしれない。
 自己嫌悪と申し訳なさで滲んだ涙を隠すように、春平は唇を噛んで俯いた。
「なんて、偉そうなこと言ったけど、僕もまだちょっと怖いんだ。こればっかりは、時間をかけてゆっくり歩み寄っていくしかないと思ってる。頭と心は別物だからね。だから手始めに、朝の挨拶をきちんとしようと思うんだ」
 うん、と昴は胸の辺りで拳を握った。春平は目をしばたきながら顔を上げ、昴を見やる。まるで子供のような心がけに涙が引っ込んでしまった。至極真剣な面持ちに、春平はふっと噴き出した。
「え、なんか変なこと言ったかな?」
「いえ……」
 くすくすと小さく笑い声を漏らす春平に、昴が少し唇を尖らせた。
「挨拶は大事だよ。……ちょっと馬鹿にしてる?」
「そんなことないですよ」
「ほんとに?」
 疑いの眼差しで顔を覗き込んできた昴と目が合い、同時に噴き出した。
 この時間に大声では笑えないけれど、落ち着いた昴の控えめな笑い声は、どこか安心感を覚えた。
 ひとしきり笑ったあと、さてと、と昴は腰を上げた。
「こんな時間にごめんね。睡眠時間削っちゃった」
 苦笑いを浮かべて見下ろしてきた昴を見上げながら腰を上げ、春平は首を振った。
「いえ。話せて良かったです。ありがとうございます」
「ううん。僕も春くんと話せて良かったよ」
 扉を開けながら肩越しに微笑んだ昴を、春平ははにかんで見上げた。
「おやすみ」
「はい、おやすみなさい」
 笑顔を残して部屋を出る昴を見送り、春平は静かに扉を閉めた。
 昴のおかげで、ずいぶんと心が軽くなった気がする。もちろん完全に恐怖が無くなったわけではないし、皆のように普通に接する自信もまだない。けれど、ゆっくりでいいのだと昴は言った。
「そうか……僕、焦ってたんだ……」
 術や体術においても皆に引けを取る。それに加えて柴と紫苑へ対する覚悟も違う。皆と同じようにできないことが、焦りを生んだ。置いて行かれるような気がして。
 春平は長い溜め息をついた。
 術に関しては、あまり悠長に考えている時間はないだろう。できるだけレベルを上げなければならない。けれど、柴と紫苑のことに関しては、何も親しくなれと言われたわけではない。ごく普通に接することができればいい。ならば、時間はある。
「ゆっくり、一歩ずつでいいんだ」
 自分に言い聞かせるように呟いて、春平は部屋の明かりを消した。
 カーテンを引いていてもうっすらと照らす月の明かりを頼りにベッドへ向かう。ふと、会合のことを思い出した。
 頭がおかしい母親から生まれた子供も、頭がおかしいのではないのか。そう言われていたと、昴は言った。今聞いてもずいぶんと乱暴な理屈だと思う。昴も、彼自身を見ない者たちからそんな風に言われて、傷付いたのだ。だからあんな風に言える。あんな風に、優しくなれる。
 では、香苗はどうなのだろう。彼女は何を思って、あんな風に自然に接することができたのだろう。
「明日、聞いてみようかな……」
 また一つ、割り切る参考になるかもしれない。
 春平はごそごそと布団にもぐりこみ、穏やかな気持ちで目を閉じた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み