第6話

文字数 5,642文字

 大河は信じられないと言いたげに呟き、背後の二人を振り向いた。正確には――沙織を。
 手の中の写真の一枚は、沙織が小田原と並んで街を歩く姿が映っており、もう一枚は、中年の男とバーらしき場所で唇を重ねている。残りの二枚は、さらに別の若い男と腕を組んでラブホテルに入る間際と、出てきた直後の写真。
 大河、宗史、晴の三人と、顔を隠すように俯いた沙織の間を、小田原の視線が行き来する。
「あの、何の写真……」
「沼田沙織だな」
 困惑した小田原の声を、少年の低い声が遮った。全員の注目を浴び、少年は沙織を睨みつけて言った。
「しらを切っても無駄だ。お前のことは探偵に頼んで徹底的に調べてもらった。そいつだけは本命か? それとも――そのうち俺の親父と同じ金づるにするのか?」
 不穏な言葉に息が止まった。金づる――。
 小田原が「え?」と口の中で呟いて、沙織が絡めていた腕をするりと解いた。ぱらりと紙を捲る音をさせたのは宗史だ。紙の束にざっと目を通している。少年は続けた。
「お前が親父から金を受け取ってた証拠はいくらでもあるからな。メッセージの履歴や、親父が残したメモも残ってる。親父が金を渡した日と、お前がブランド物買って自慢気にSNSに載せた日も丸被りなんだよ。結婚ちらつかせて、親が騙されて借金背負わされたとか過労で入院したとか言って中年オヤジに金貢がせて? 使い道はホストとブランド物か。騙してんのはてめぇだろクソが」
 少年は、はっ、と息を吐き出すように笑った。
「大体、親父も親父だよ。こんな安い女に引っ掛かって、こつこつ貯めた貯金のほとんど持って行かれてんだもんな。挙げ句の果てに、騙されてたって分かってショック受けてさ、赤信号に気付かないで事故死だぜ? 加害者の人に申し訳ないわ。ほんっと、情けないにも程がある……っ」
 少年は掠れた声で悪態をつくと、目に涙を滲ませて唇を噛んだ。少年の背後で、父親が悲痛な顔で目を伏せた。改めて見た男は、きちんとした身なりで清潔感のある、誠実そうな人だ。
 つまり、沙織は――。
「ま、待ってください……!」
 小田原が分かりやすく狼狽して声を上げた。
「人違いじゃ……っ」
「間違いねぇよ」
 食い気味に一蹴され、小田原は声を詰まらせた。眉を寄せ、何も反論しようとしない沙織の両肩を掴んで自分の方へ向かせる。
「さ、沙織ちゃん。何かの間違いだよね。だって、僕の演技が好きだって言って、遅くまで稽古に付き合ってくれたじゃない。それに僕には一度もお金の話なんてしたことないし」
「じゃあ他に何か目的があるんだろ」
「あんたに聞いてない!」
 声を荒げた小田原に大河と晴が目を丸くし、宗史が紙の束からちらりと視線を上げた。こんな風に怒鳴る人には見えないのに。どちらかといえば気が弱い、頼りのなさそうなタイプだと思っていた。それだけ動揺しているということだ。
「小田原さん」
 宗史が口を開いた。紙の束を閉じ、封筒や写真と一緒に小田原の方へ向けてテーブルに置く。一枚目に「沼田沙織に関する調査報告書」と書かれ、探偵事務所の名前と担当者の名が記されている。それらを遠目に見て、小田原が目を剥いた。
「この望月探偵事務所(もちづきたんていじむしょ)は、弁護士にも伝手があって信用できる会社です。彼の言っていることは間違っていません」
 大河は、何でそんなこと、と考えかけてやめた。両家の繋がりは自分の想像の遥か上を行く。あとで聞けばいい。
 明確に言い切った宗史に、小田原が薄く口を開いた。と、盛大な舌打ちと共に、沙織が肩を掴んでいた小田原の手を勢いよく払い除けた。小田原が驚いて沙織を見下ろす。
「ったく、せっかく見つけたのに。余計なことしてくれるわ」
 これまで可愛らしい声で喋っていた女性とは思えない。沙織が低い声でぼそりと呟いた。
「沙織ちゃ……」
「騙される方が悪いんでしょ」
 吐き出された言葉に空気が凍り付き、大河と小田原、そして少年が目を丸くした。沙織は溜め息をつきながら鞄を肩にかけると、腕を組んで少年と男を見下すような目で見据えた。顔付きが別人だ。
「そうよ。有名な企業に勤めてるって聞いたからターゲットにしたの。早くに奥さんを亡くしてるってところもポイント高かったわね。でもよく言うでしょ、金の切れ目が縁の切れ目って。まあ思ってたより早かったけど」
 沙織は蔑むようにくすりと笑った。
「若い女にちょっと迫られたくらいで鼻の下伸ばしちゃって、みっともないったらなかったわ。あたし二十五よ? 本気で結婚できると思ったの? お金も無くなった上にこぶつきの中年オヤジなんか本気で相手するわけないでしょ。ましてや結婚なんて有り得ないわ。ばっかじゃないの」
「てめぇッ!」
「やめろって」
 激高した少年を、晴が体を張って止めに入る。一方、振り向いた宗史に向かって男が少年を指差し、今度は自分の尻を叩いて何かを訴えた。宗史はすぐに、晴に抱きつくようにして沙織を睨み付ける少年の背後に回ると、すかさずポケットに手を突っ込んだ。
「何すんだやめろ!」
 宗史を振りほどこうとした少年を、晴ががっしり両腕で抱き締める。
「はいはい、大人しくしましょうねー。すぐに終わりますからねー」
「く、くるし……っ」
 おどける晴を大河は白けた目で眺める。この状況でよくふざけられるものだ。
 宗史がそれを引っ張り出すと、晴がぱっと両腕を広げて少年を解放した。宗史の手の中には、小型の折り畳みナイフ。男がほっとした顔で肩の力を抜いた。
「やっぱりな。だからか」
 晴がそう言って男を見やり、宗史が呆れ顔で息をついた。少年はぜいぜいと息を切らして宗史を睨み上げる。
「かえ……っ」
「返すわけないだろう」
 宗史にじろりと睨みつけられ、少年は一瞬怯んで舌打ちをかました。
 そうか。大河は男へ視線を投げた。やっと分かった。男が、小田原が稽古をする時にだけ現れ続けた理由が。
「沼田さん」
 宗史が酷く冷ややかな目で沙織を見やる。その視線に沙織はわずかに顔を強張らせた。
「彼の――幽霊の正体を、ご存知でしたね?」
 沙織は少々ぎこちないながらも、ふんと鼻を鳴らした。
「だから何よ。知ってるからって言うわけないでしょ。そりゃあね、初めはびっくりしたし怖かったわよ。昔切った男が幽霊になって目の前にいるんだもの。あたしに仕返しに来たんじゃないかって思ったわ。でも何もしてこないじゃない。意味分かんなかったわ。でも」
 沙織は言葉を切り、小田原を顎でしゃくった。
「話しができるかどうかも分かんなかったけど、こいつにおかしなこと吹き込まれたら困るもの」
 小田原の稽古に付き添った本当の理由はそれか。初めは小田原を信じさせるために稽古に付き合ったけれど、いざ現れたのは、以前騙した男だった。幽霊に対する恐怖より、保身を優先したのだ。
 けれど、そこまでして小田原にこだわった理由は何なのだろう。沙織は「せっかく見つけたのに」と言った。これまで騙してきた男とは違って、金の話しもしていない。小田原は、特別だったと思いたい。けれどこの態度は。
 小田原が酷く悲しい顔で沙織を見下ろし、ぽつりと口を開いた。その目には、失望と、ほんのわずかな期待の色が混じっている。
「何で、そこまでして、僕を……」
 沙織はにっこりと笑ってのたまった。
「あたしねぇ、オスクのファンなのよ」
 大河がぴくりと反応し、瞬きをした。
「あんた、前にオスクのMVに出たって言ったわよね。メンバーに会ったんでしょ?」
「そう、だけど……」
 小田原に向けた大河の目が、間違いなく煌めいた。今度は宗史と晴が白けた視線を投げる。
「でもあれは、本当にちょっとした役をしただけで。それに会ったって言っても、偶然メンバーが予定より現場に早く着いたから、たまたますれ違って挨拶されただけだったし。他にもエキストラの人たちがたくさん……」
「でもMVに出たっていうのは本当でしょ。あんたがもう少し有名になればいつかそれが伝手になるかもしれない。長期戦になってもいいから、とにかくオスクのメンバーとコネを作れそうな奴を探してたの。初めはね、東京に引っ越すつもりでメディスミュージックの社員かバイトを狙ってたんだけど、あそこなかなか募集かかんないのよねぇ。そんな時に、ここの事務の募集を見つけたの。何の伝手もないよりはマシでしょ。同じメディスの会社だし、もしかしてって。収穫がなかったらすぐに辞めて、東京に行くつもりだったわ」
 小田原は深く俯いて、じゃあ、と続けた。
「僕の演技を、好きだって言ってくれたのは……」
「そ。とっとと有名になってもらいたかったから、持ち上げただけよ。早ければ早いほどいいでしょ。あたし、アキト狙いなのよね。顔もすっごい好みでお金持ってるなんて最高じゃない。でもその分ファンも多いでしょ。だからどっかの女に盗られる前になんとかしたかったんだけど、あんたいつまで経っても一向に役者の仕事増えないしお金ないしさ。顔はそこそこなのに。長期戦覚悟だったけど、さすがにここまで何の変化もなかったらねぇ」
 沙織は嘲笑するように目を細め、
「あんた、才能ないんじゃない?」
 そう言って口の端を歪め、くすりと笑った。
 その笑みが癪に障ったのか、沙織に飛びかかろうとした少年を制したのは宗史だった。宗史と晴の視線は、俯いて地蔵のように動かない大河に注がれている。少年が小首を傾げた。
「あのさ」
 不意に大河が沈黙を破った。絶対に陰陽師の習性だよ、と思ったあの笑みを口元に乗せ、大河は持っていた写真をテーブルに置いて沙織を見やる。
 確かに、芸能人と知り合いになりたいとか、結婚したいとか、一概に無謀だとは言えない。それを叶えるために、沙織は行動に移した。けれど――。
「俺も、オスクのファンなんだ」
 やり方が気に入らない。
「……だから何よ」
 一つ目。
「オスクの曲で、何が好き?」
「は?」
 二つ目。沙織が気味悪そうに眉を寄せた。
「ね、何が好き?」
 笑顔を湛え、重ねて問うた大河に沙織は訝しげな顔で答える。
「月光とか……フェイスとか」
 三つ目。
「あー、分かる。俺も好き」
「だから何なのよ。今そんなこと関係ないでしょ」
「どっちもいい曲だけど、俺はやっぱりアンリミテッド・ワールドかな。あとはあれ、ほら、ファン投票で一位になったやつ。あー、駄目だド忘れしちゃった。何だっけ?」
 指摘を無視し、腕を組んで首を傾げた大河の質問に、沙織がぐっと声を詰まらせた。
 四つ目。大河の顔から波が引くように笑みが消えた。
「あんたさ、ほんとにオスクのファンなの?」
 腕を解いて冷ややかな目を向けた大河に息を飲んだのは、宗史と晴以外の全員だ。
「同じファンだって言われて喜ばない奴いないよ? ファンなのに、何の曲が好きって聞かれて咄嗟に『は?』なんて言う奴もいない。月光とフェイスは流行ったドラマの主題歌だったから、知ってる人は多い。何より、ファン投票の一位は、アンリミテッド・ワールド。あんた、突っ込まなかったよね」
 ファン投票の結果は公式HPで発表され、のちにファンセレクトとしてCDが発売された。さらにボーナストラックで音源化されていないインディーズ時代の曲が収録され、ファンの間でかなり話題になった。
 淡々と質問の意図を明かした大河に、宗史と晴が「へぇ」と小さく関心の声を漏らした。
「だ、だからって……っ」
「そうだよ。だからってファンじゃないとは言わない。ファンだから何でも知ってないとおかしいとか、逐一ホームページとかブログチェックしろとか思わない。好きな曲だって、たまたまあの二曲があんたの趣味に合ったのかもしれない。でも、いちファンとして言わせてもらう」
 大河は目を据わらせて、今まで聞いたことないほどの低い声で告げた。
「顔と金だけでアキトさん評価してんじゃねぇよ。男騙して金むしり取った上に、人の夢利用して踏みにじる奴をあの人が相手にするわけねぇだろ、オスク舐めんな。あんたみたいな奴ファンじゃねぇ。それとなぁ」
 大河は体の横で痛いくらい両拳を握り締めた。
「奥さんが亡くなったことをポイント高いとか、子供をこぶ呼ばわりとか不謹慎で失礼にも程があんだよ。それと、あんたに才能があるかないかを決める権利はねぇ」
 大河は大きく息を吸って、まなじりを吊り上げた。
「人の気持ち弄んで馬鹿にしたり、本気で夢追ってる人を笑うんじゃねぇ! 馬鹿はお前だ、この馬鹿ッ!」
 腹の底から張り上げた声は、見事に事務所内に響き渡った。外まで響いたかもしれない。
 小田原と少年と男は呆然とし、沙織は大河の迫力に気圧されたのか、真っ青な顔をしてへなへなとその場に座り込んでしまった。
 大河は勢いよく鼻息を吐いて、手の力を抜いた。
 そんな大河を呆然と見ていた小田原が、不意にくしゃりと顔を歪めて俯いた。視線の先には、うなだれた恋人の姿。静かに目を伏せ、やがてゆっくりと瞼を上げた。何かを決意するように、きゅっと唇を結ぶ。
 小田原が、おもむろに沙織の側にしゃがみ込んで膝をついた。その顔には、まるで菩薩のような穏やかな笑みが浮かんでいる。
「沙織ちゃん」
 優しい声色で名を呼ばれ、沙織が青い顔で視線を向けた。
「僕は、こんな性格だし、頼りないし、演技にばかり夢中で、恋愛には縁がなかった。だから君との時間は、何もかもが新鮮で、刺激的だった」
 小田原は、満面の笑みを浮かべて告げた。
「今までありがとう。楽しかったよ」
 小田原は役者だ。その笑顔や言葉が演技なのか、それとも本心なのか、大河には分からない。けれど、
「立てる?」
 差し出した手は、微かに震えていた。
 沙織はその手に目を落として唇を噛むと、ふいと顔を逸らして立ち上がった。そして、何も言わずに背を向け、早足で扉へと向かった。
 ゆっくりと腰を上げ、一度も振り返らない小さな背中を見送る小田原の目は、とても切なそうだった。
 蝶番を軋ませながら扉が閉まる音が、やけに虚しく響く。
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