第9話

文字数 1,840文字

 船着き場で別れを惜しむ熟女軍団を見送ると、柴が周囲にぐるりと視線を巡らせた。
 作業場に駐輪場、駐車場が目の前に広がり、防波堤が延々と続く。その向こうには道路を挟んで一軒家や倉庫がぽつぽつと建ち、遠くの方には山々が稜線を連ねる。
 こちらの作業場は、向島と比べてかなり小規模だ。というのも、魚介類を水揚げする場所ではなく、漁具の修理や船の清掃道具置き場だからだ。あとは、雨の日の送迎船の待合室にもなり、漁師らの酒盛り場所になったり、時々向島から出張販売ののぼりも立つ。その時は集会場から島内放送がかけられ、早朝に買い逃した主婦と野良猫が一斉に集まってくる。猫の本能たるや、侮れない。
「すげぇもらったわ」
 車へ向かいながら苦笑いでそう言った晴の手には、飴やせんべいや小袋のいもけんぴが入った半透明の袋が握られている。
「おばちゃんって、何かしら鞄の中にお菓子入れてるよね。そしてやたらと人にあげたがる」
「何なんだろうな、アレ。まあ、有難くいただくけど。訓練中につまむのにちょうどいいだろ」
「だね」
 晴によると、一番人気を博したのは宗史らしい。上品で端正な顔立ちと柔和な笑みが熟女の心を鷲掴みにしたそうだ。俺は思いっきり殴られたけどな、グーで、と晴がぼやいていた。根に持っている。次いで柴は少々天然風味の返答が母性をくすぐり、次点の紫苑は、精悍な顔立ちが学生時代の憧れの先輩を思い出させたらしい。最後は言わずもがな晴だ。
「俺のこの溢れ出る色気と男らしさが分かんねぇとは。おばちゃんたち見る目ねぇよなぁ」
「ちょっと何言ってんのか分かんないんだけど」
「……色気、とは……」
「柴主、考えてはなりません」
「聞き流せ。馬鹿になるぞ」
「俺泣いていい? 泣いていいかな?」
 勝手に泣いてろ、ほんと可愛くねぇ、とお決まりのやり取りの中、車は発車した。
 島民は約三百人。高齢者世帯もあるが、ほとんどが二世帯、三世帯で暮らしている。大雑把に計算して五十から六十軒程度。畑や空き地の面積の方が広く、畑の中に家が建っている状態だ。
 多い時は六百人程いたらしいが、後継ぎがいなかったり不便さだったりを理由に本土へ移り住み、徐々に数が減った。そのため、今にも朽ち果てそうな空き家や、雑草がはびこったままの畑も見える。
 とにもかくにも、視界は広いし空も広い。ここまで見通しがいいと事故とは無縁だ。街灯は数えるほどしかなく夜はほぼ真っ暗だが、月明かりで十分。逆を言えば、天気が悪い日はぞっとするほど闇が深い。
 青々と農作物を実らせた畑と畑の間を抜け、時折民家の前を通り、坂道を登る。トラクターを見て興奮するあたり、鬼だろうと人だろうと機械に興味を示すのは男として共通らしい。やがて道は細くなり、すぐ側は山が迫り、反対側は畑とビニールハウスが見渡せる。刀倉家の所有地だ。
 低いコンクリート塀で囲まれた敷地に車を入れ、シャッターを上げたままの倉庫の前に停める。
「はい、到着。皆、お疲れ様」
 エンジンを止めながら、影唯がほっとしたように言った。人様の息子を預かっているのだ、いくら鋼鉄の心臓でも緊張するだろう。
「ありがとうございました」
「どうも、お疲れさんでした」
「世話になった」
 宗史、晴、柴が礼を告げ、紫苑が頭を下げた。
「ちょっとゆっくりしてから行く?」
「そうだなー、一服もしてぇし」
「その前にご挨拶だ」
「分かってるって。つーか、やっぱりちょっと涼しいな、ここ」
「小高いからな。山も近いし」
「避暑に来るにはいいよなぁ」
「えー? 確かに街中よりは涼しいけど、何もないよ?」
「泳げるだろ」
 締まりのない顔をした晴の思惑は、考えるまでもない。
「いるのは子供だけだよ」
 荷物を下ろし、玄関へ向かいながら現実を口にしてやると、晴はとたんにしゅんと肩を落とした。こんな田舎で若い女性の水着姿を期待する方が間違っている。宗史と紫苑が白けた目を向けた。
「ただいま」
 笑いを堪えて扉を開けた影唯に続く。
「あれ」
 土間に入ると、見覚えのあるでっかいスニーカーがあった。省吾が来ているらしい。それはいいが、もう一足。女性物の草履だ。客でも来ているのだろうか。
 居間の襖が開く音がして、大河は反射的に顔を上げた。
「おー、おかえり」
「あ、ただい、ま……」
 自分の目を疑った。何でここに。省吾のあとに続いて顔を出したのは。
「――鈴!?」
 びっくり仰天する大河の背後で、宗史と晴が「やっぱりか」と溜め息まじりに呟き、柴と紫苑が「ああ」といった顔をした。
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