第6話
文字数 1,570文字
心地良い声と優しい温もりに誘われて、意識を手放した。
その後すぐに、ふわふわと浮いているような感覚がしたのを覚えている。
意識の端で、誰かが悲しそうに何か呟いた。
どうしたの、何がそんなに悲しいの。そう聞きたいのに、意識は遠退いた。
次に覚えているのは、向小島の風景。
突然、暗幕を開いたように目の前に現れた鮮やかな風景は、春の島だ。
何故か上空に浮いて見下ろしている。ああ夢か、とごく自然に受け入れて、眼下に浮かぶ島を見渡した。
青づいた山々を山桜の薄紅色が可憐に彩り、高く晴れ渡る空を吹く風に千切れた白い雲が流れ、海は穏やかに白波を立てる。
ふと、島の皆が同じ方向へ歩いていることに気付いた。あの方向は、集会所だ。
島の集会所には、どこか浮かれた様子の見慣れた顔ぶれが集まっている。広場に植わっている桜は、樹齢百年を越す大木だ。毎年、春になると見事に咲き誇る桜の下に皆が集まり、宴会を開くのが習わしとなっている。もともとは豊穣を祈願する春祭りが始まりだったらしく、島内の小さな神社で祈祷が行われた後、桜の下に集まり飲めや歌えやの宴会が催される。
浴びるように飲み続ける大人たちに交じって、大河と省吾は出されるごちそうをつまんではカラオケを歌い、桜の木によじ登ってはよく叱られていた。
視界を塞がんばかりに咲く満開の桜の木の上から、皆の笑い声を聞くのが好きだった。
気付けば、いつかのように太い枝に立ち、皆を見下ろしていた。
省吾、来いよ。気持ちいいよ。
風子、危ないからやめとけって。
ヒナ、来るなよ。お前は絶対危ないから。
おじさん、おばさん、こんにちは。
あれ、大吾兄ちゃん久しぶり。帰ってきてたんだ。
伊藤のおじさん、いつもありがと。
トシばあ、足の調子はどう?
ヒナのばあちゃん、おはぎ美味かった。また作ってよ。
母さん、父さんちょっと飲み過ぎじゃないの。
あれ? ばあちゃんだ。なんだ、元気そうじゃん。
ひらひらと花弁を散らす桜の木に包まれて響く、皆の笑い声。見慣れた顔ぶれに、見慣れた光景。心が満たされていく。ぽっかりと空いた心が塞がっていく。もうずっとこのまま――あれ、じいちゃんは?
ばあちゃん、じいちゃんは? 来てないの?
そう尋ねたとたん、ふっと辺りが暗闇に変わった。突然停電になったような、そんな感じだった。
驚いて思わずつぶってしまった目を開けると、何故か祖母の姿だけははっきりと見て取れた。暗闇に浮かぶように佇んだ彼女は、あの頃と変わらない微笑みを浮かべてこちらを見つめている。
ばあちゃん、じいちゃんは?
もう一度尋ねると、祖母は誰かを招くようにすっと手を差し出した。すると横を人影が通り過ぎた。
何の気なしに視線を向けた先には、影正の背中。
じいちゃん。
影正は祖母の手を取り、振り向いた。その瞳はとても穏やかで、愛しげで、けれどどこか悲しそうで――。
急激な不安を覚え、息が詰まった。
二人揃ってこちらを眺め、影正が声もなく何かを告げた。そして、背を向けた。
待って。
ゆっくりと、しかし確実に遠退いていく二人の背中に叫ぶ。
待って! じいちゃん、ばあちゃん! どこ行くんだよ!
どれだけ声を枯らして叫んでも、千切れるほどに手を伸ばしても、届く気配はない。
空を掴むだけの虚しい手に、ただただ痛む心に息をするのも忘れ、膝から崩れ落ちた。無意識のうちに頬を流れ落ちる涙に、顔を歪ませる。
見えなくなっていく二人の背中を呆然と見つめながら、強烈な郷愁に襲われた。
――帰りたい。
悠久の時より守られてきた自然に囲まれて、大切な皆が笑って側にいた、何も知らなかったあの頃に――あの場所に。
大河は、声もなく天を仰いだ。
その後すぐに、ふわふわと浮いているような感覚がしたのを覚えている。
意識の端で、誰かが悲しそうに何か呟いた。
どうしたの、何がそんなに悲しいの。そう聞きたいのに、意識は遠退いた。
次に覚えているのは、向小島の風景。
突然、暗幕を開いたように目の前に現れた鮮やかな風景は、春の島だ。
何故か上空に浮いて見下ろしている。ああ夢か、とごく自然に受け入れて、眼下に浮かぶ島を見渡した。
青づいた山々を山桜の薄紅色が可憐に彩り、高く晴れ渡る空を吹く風に千切れた白い雲が流れ、海は穏やかに白波を立てる。
ふと、島の皆が同じ方向へ歩いていることに気付いた。あの方向は、集会所だ。
島の集会所には、どこか浮かれた様子の見慣れた顔ぶれが集まっている。広場に植わっている桜は、樹齢百年を越す大木だ。毎年、春になると見事に咲き誇る桜の下に皆が集まり、宴会を開くのが習わしとなっている。もともとは豊穣を祈願する春祭りが始まりだったらしく、島内の小さな神社で祈祷が行われた後、桜の下に集まり飲めや歌えやの宴会が催される。
浴びるように飲み続ける大人たちに交じって、大河と省吾は出されるごちそうをつまんではカラオケを歌い、桜の木によじ登ってはよく叱られていた。
視界を塞がんばかりに咲く満開の桜の木の上から、皆の笑い声を聞くのが好きだった。
気付けば、いつかのように太い枝に立ち、皆を見下ろしていた。
省吾、来いよ。気持ちいいよ。
風子、危ないからやめとけって。
ヒナ、来るなよ。お前は絶対危ないから。
おじさん、おばさん、こんにちは。
あれ、大吾兄ちゃん久しぶり。帰ってきてたんだ。
伊藤のおじさん、いつもありがと。
トシばあ、足の調子はどう?
ヒナのばあちゃん、おはぎ美味かった。また作ってよ。
母さん、父さんちょっと飲み過ぎじゃないの。
あれ? ばあちゃんだ。なんだ、元気そうじゃん。
ひらひらと花弁を散らす桜の木に包まれて響く、皆の笑い声。見慣れた顔ぶれに、見慣れた光景。心が満たされていく。ぽっかりと空いた心が塞がっていく。もうずっとこのまま――あれ、じいちゃんは?
ばあちゃん、じいちゃんは? 来てないの?
そう尋ねたとたん、ふっと辺りが暗闇に変わった。突然停電になったような、そんな感じだった。
驚いて思わずつぶってしまった目を開けると、何故か祖母の姿だけははっきりと見て取れた。暗闇に浮かぶように佇んだ彼女は、あの頃と変わらない微笑みを浮かべてこちらを見つめている。
ばあちゃん、じいちゃんは?
もう一度尋ねると、祖母は誰かを招くようにすっと手を差し出した。すると横を人影が通り過ぎた。
何の気なしに視線を向けた先には、影正の背中。
じいちゃん。
影正は祖母の手を取り、振り向いた。その瞳はとても穏やかで、愛しげで、けれどどこか悲しそうで――。
急激な不安を覚え、息が詰まった。
二人揃ってこちらを眺め、影正が声もなく何かを告げた。そして、背を向けた。
待って。
ゆっくりと、しかし確実に遠退いていく二人の背中に叫ぶ。
待って! じいちゃん、ばあちゃん! どこ行くんだよ!
どれだけ声を枯らして叫んでも、千切れるほどに手を伸ばしても、届く気配はない。
空を掴むだけの虚しい手に、ただただ痛む心に息をするのも忘れ、膝から崩れ落ちた。無意識のうちに頬を流れ落ちる涙に、顔を歪ませる。
見えなくなっていく二人の背中を呆然と見つめながら、強烈な郷愁に襲われた。
――帰りたい。
悠久の時より守られてきた自然に囲まれて、大切な皆が笑って側にいた、何も知らなかったあの頃に――あの場所に。
大河は、声もなく天を仰いだ。